05 書籍・映画など

2008年3月28日 (金)

本を読む能力

 高校生の頃、難解に思えた哲学書を読む人をなんとなく尊敬していた。
 自分も読んで理解できるようになりたい、と思った。

 今でも、「本を読む能力」が高い人を尊敬する気持ちがある。
 ホッブズ、ロック、ルソーなどは、何度読んでもわからないところは残るし、解説書を参照してやっとわかった気にになれるところもある。そのような本を自分だけの力で読んで理解できるというのは、すごいことだと思う。

 この能力は、行政にせよ、国際協力にせよ、意思決定に関わることに携わる人に求められる知的能力と共通する部分は大きいだろう。こうした能力をもっている人は、難解な行政や国際協力に関する論文を比較的たやすく、自力で読む能力があるであろうことを想像すると明かである。

 こうした能力に対する尊敬を欠く人というのは、どう考えたらいいのかわからない。
 尊敬がないくらいなら、まだいい。「くだらない」とか、「役に立たない」(確かに役に立たない場面も多いだろう)と決めつける人もいたりする。スポーツ新聞を読みふけっているような人ほど、そういう傾向が強い。
 なんとかならないか。 

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2008年3月12日 (水)

経営者が書いた本

 教養というのは、総合的な判断力を磨くための訓練により得られた素養といっていいだろう。
教養に欠ける人は、教養というものがどう役立っているか理解しない。欠けていることについて、自覚するのは、みんなが知っていることを自分だけ知らなかったときくらいである。ただ、特に日本人同士の場合、教養を軽視する人たちはそういう人たちだけで集まるので、そうした機会さえほとんどない。
 教養の代わりに、巷にノウハウ本があふれている。こういうノウハウ本は古典の焼きなおしが多い。マルクスやホッブズやロックやヒュームや孔子や老子や徂徠や宣長の聞きかじった話をさらに聞きかじっているとしか思えない、出来の悪いコラージュが並んでいる。聞きかじりの聞きかじりだから、原典がわからず、そのことでかえって逆に自分のオリジナルな考えと勘違いしているようなものも目立つ。それは経営者の書いている本に特に多い。読んでいた恥ずかしい。もちろん、松下幸之助氏のように、すごい例外もいるけれども。
 経営者には単純に経験を語ってもらえばいいのではないか。下手に講釈をぶつのはやめたほうがよさそうである。
 ・・・久しぶりに経営者が書いた本を読んだけれど、損した。時間の無駄、紙の無駄。

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2008年2月28日 (木)

古典・・・

 古典を読まないことについて、大丈夫かな、と思うけれど、逆に、古典を読んで何になる?という人の方が多数派かと思われる。
 しかし、源氏物語とか奥の細道を読まないで、日本人の細やかな感じ方を理解できるとは思えない。理解できないと、細やかな感じ方をベースにした生き方ができない。さらには、そういう細やかな感じ方が一つの美点であることを理解できず、簡単に否定できてしまう。

 国際協力関係者には日本社会嫌いが多い。たくさんの国際協力関係者に会って来たけれど、国際協力関係者、かつ、日本社会嫌いの人で、古典に触れるなどして日本の文化の細やかさに一定の理解をもっている人は、数えるほどしかいない(二人、かな。)。そうした人は、ヨーロッパの知的伝統についてよく勉強していたりする。要するに、プラトンと紫式部を比較検討して、プラトンがいいや、と考えたわけである。それならわかる。

 今更、と言われそうだけれど、古典というのは、選び取られたものだろう。
 ヨーロッパでは、一旦、プラトンは中世に消えて、その後復活した。中世が終わってから、プラトンを選んだ。プラトンを一つのベースにして生きていくことにした。だからプラトンが古典になったわけである。
 
 現在は、紫式部を捨てるかどうかについて、自覚的な判断をしないまま捨て、かといって、プラトンを選び取ることもしない、という状態だろう。古典がなくなって、知的ものを含む伝統がなくなっていく姿をみる気分である。いいのか?

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2008年2月13日 (水)

スパイダーマン

 映画スパイダーマンを見た。
 国連機関の駐日代表のD氏が、7歳の子供にしつこく「僕はスパイダーマンだ。」と言い続け、しまいには信じてしまった、なんてことがあったのだけれど、「Dさんは自分がスパイダーマンだって言ってたんだよ」などと言っていた。

 映画では、「大いなる能力には大いなる責任が伴う」(だったかな?)ことを巡っての葛藤、伴った責任の結果として、個人的な望みを断念する主人公の姿が描かれている。

 この図式はあらゆることに当てはめ可能であり、勇気づけられる人も多かろう。
 逆に、人としての「卑しさ」もこの図式で表現できるだろう。

 自分自身、この図式をよくよく振り返ってみたら、「あー!」と布団の中で叫びたくなった。。。

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2008年1月 5日 (土)

東京物語/救出者(3)

 東京物語の紀子は、戦争により若くして未亡人となり、狭くて汚いアパートに一人住まいである。1950年代前半の想定である。多分、映画での年の頃は20代後半だろう。

 1980年代後半、紀子が60代前半になっているであろう頃、友達の狭くて汚いアパート(流しも共有)にときどき遊びに行っていた。
 そのアパートには、まさに60過ぎの男女の単身者が何人か住んでいた。それだけで、何となく心が痛んだ。何らかの避けることのできないような不幸があってそのアパートに住んでいるような気がしたからである(世の中はバブルに向けてまっしぐらの時代だった。)。

 一度、流しでばったり会った、多分60代前半の女性とお話をしたことがある。若い男に話しかけられることに慣れていないのか、2,3枚の皿を洗いながら落ち着かない様子だった。東北出身で長くそのアパートで一人暮らしをしていることだけはわかった。
 はじめて「東京物語」を見たあとだったので、その人の姿が紀子の姿に重なった。映画の中で女神のようだった紀子が、こうしてひっそりと暮らしているのかもしれない、と。

 話は変わる。
 年金問題で、「世代間の不公平」を声高に叫ぶ学者・マスコミがいる。1965年生まれ以降は少子化のために払い損になるということである(なお、少子化が進まなければ払い損には基本的にはならない。)。
 「損だ!」と叫ぶ人たちの心の中には、避けられなかった不幸を引き受けた人たち、例えば「紀子」のような人がいないのだろうか、と思う。
 少子化による世代間の不公平を指弾する前に、社会の支え合いを重視すべきだと思う。

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2008年1月 4日 (金)

東京物語/救出者(2)

 東京物語の紀子を見ていて、こういう人の存在が世知辛い世の中の救いになるんだろうと思う。
 両方に共通なのは、単純といっていい「善意」である。

 一方で、国際協力を志す人たちは、「世界を救おう」なんてことを考えている人も多かろう。それはそれでいい。

 ただ、紀子のように日常において「救い」になるような人と、国際協力に従事し「救おう」としている人とが、一致する場合とそうでない場合がある。というか、著しく不一致がある場合にはどう考えたらいいのかわからなくなる。そして案外こういう例が多い。

 「国際協力もビジネスだ」と言ってしまえばこの著しい不一致にもケリがつくのだけれど。

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2008年1月 3日 (木)

東京物語/救出者

 「ダーウィンの悪夢」なんていう、南北問題を背景にした映画をみたあとなので・・・と思い、友達の勧めに従い、「小さな中国のお針子」を見た。うーん、これは、文化大革命を背景にした話だった。
 その次、改めて「東京物語」を見た。うーん、太平洋戦争後の世相を背景とした話だった。。。ついでに、「救出者-なぜユダヤ人を助けたか」という本を読んだ。これは、ホロコーストを背景としている。
 年初から重たい。

 善ってなんだろう、ということはいろいろ考えさせられた。
 東京物語は、何度目だろうか。原節子が演じる紀子に、容姿でなく(容姿もだが)、「美しさ」ってこういうものなのだ、という気持ちにさせられたりする。この場合の「美しさ」は、最もつらく苦しい環境にいるのにかかわらず、最も心からの思いやりししたがった行動をする人の美しさ、である。倫理、と言い換えてもいい。日本人にとって、多分、違和感のない「よい人」であるのだけれど、ほとんど宗教的境地のような状態にどうやって到っているのか、とふと考えたりする。

 「救出者」の方は、主に市井に生きる人が、どうしてときに自らの生命を危険に晒してまでユダヤ人を助けたのか、についてのドキュメントである。多くの人は、「人を助けるのは当たり前」と答えていた。ベンサム流の功利主義から出てこない考え方だろう、と思う。

 また、「悪の凡庸さについて-イスラエルのアイヒマン」と重ねてみると、やっぱ、悪は凡庸で、そうした悪から善を守るには、相当の(主に知的な)努力と勇気が必要ということになる。

 なんて書いているうちに、すごく凡庸な結論にたどり着いてしまった・・・。

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2008年1月 1日 (火)

「ダーウィンの悪夢」

 ダーウィンの悪夢、という映画を見た。
 ビクトリア湖の漁業を巡る問題のドキュメンタリーである。
 身につまされた。不安な気持ちになった。

 利潤を得る人がいる一方で、そのためにしわ寄せを受ける人たちがいる、というのはどこにでもあることといえばそれまでである。
 「利潤を得ようとする人に節度を求めるのは無理・無駄」というのは鉄の法則かと思われる。一体感をもったコミュニティであればそういう節度を例外的に求めることができるかもしれない。しかし、先進国と途上国といった地球規模の広がりをもっているところに、一体感をもったコミュニティを作り出すのは不可能なんだろう。

 この映画の主旨とはすこしずれるけれど、公共部門がしっかりしていないと、 企業部門が引き起こす問題が深刻になる。国際協力は、基本的には公共部門をしっかりさせるための活動である。
 一方で、国際協力を志す人たちからの相談をよく受けるけれど、彼らの中に「ビジネスを通じた開発に興味があります」なんてことを言う人がすごく増えているのが気になる。

 いろいろ考えされる映画だった。。。

 
 

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2007年12月 1日 (土)

フェルメール・・・

 どうも日本人はフェルメールが好きらしい(私も好きだけど)。

 かれこれ50年近く前、国家公務員上級試験の教養試験にフェルメールに関する出題があった。
 かれこれ20年近く前、某省幹部でまさにその試験を受けた方が、「フェルメールを知らんと国家公務員にはなれないのか?」と当時思った、とおっしゃっていた。当時、誰に聞いてもフェルメールを知らなかったそうである。それもあって、ずっと、「フェルメール」という画家が気になっていたんだそうである。
 そうこうするうちに、そこらじゅうでフェルメールを見かけるようになった。

 50年前の出題者に会ってみたい。。。

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2007年10月 1日 (月)

リトル・ドラマー・ガール

 ナイロビの蜂を読んだ後、無性にル・カレの小説が読みたくなった。
 ル・カレの小説は読みにくい。ファーストネームとファミリーネームが入れ替わり出てくるし、偽名も満載だし。イギリス風の言い回しも多用しているみたいだし(翻訳者泣かせだと思う。)。
 なので、元気があるときでないと読めない。で、本棚にあった、以前読んだことのある、リトル・ドラマー・ガールを読んでみた。丁寧に読んだ。15年ぶりくらい、である。

 パレスチナ問題が背景にあるのだけれど、当時はもっと差し迫った感触があった。今でも同じような状況だと思うけれど、マスコミは報道疲れを起こしているような気がする。ピンターではないけれど、「何も起こりはしなかった」わけではない。さまざまな暴力が起きているわけである。

 そういえば、ある援助機関のトップが、「圧倒的な不正義がテロの温床だ」と言っていた。
 そうだよな、と改めて思う。

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