02 政治・行政

2008年4月 2日 (水)

議員の日当制と合併

 矢祭町の議員の日当制導入は、支出削減のために行われた。支出削減は、合併せずにやっていくため、である。わかりやすい。
 私の故郷の町では、住民の多くが広島市との合併を望んでいるにもかかわらず、町議会議員は必死に合併を阻止しようとしている。フリーターの息子に町議会議員を継がせることばかり考えている人もいるようだ。家業になっている。
 私の故郷の町で、議員の日当制を導入したら、おそらく、希望する住民の声に押されて合併に向かうだろう。町議会議員が守るべき利益がなくなるからである。
 仮に同じ施策を行ったとしても、帰結が正反対になりそうだ、というのは興味深い。

 話は変わるけれど、ロシアのプーチン大統領は、地方の知事を直接選挙から、大統領任命制に戻すという改革を行ったが、日本を含む先進国の人々は、否定的な見方をしているようである。しかし、私は、自分の故郷の町を念頭に置くと、「大統領任命制でも悪くないかも。」と考えたりする。

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2008年3月30日 (日)

タクシー券・・・

 報道によると、タクシーチケット代が、5年で81億円くらい、ということであれば、国土交通省の職員数からみると、一人当たり1年で、6万円程度になる。

 定員削減、コスト削減で、運転手さんがいなくなり、タクシーチケットを与えられる、といったことがあったり、また、国土交通省の事務所は、山奥にあったりして、公共交通機関がなかったりするところも多かったりする。

 とはいうものの、半券がなかったりすることからすると、タクシーチケット代が多いかどうかの判断はできかねる、ということだろう。

 ただ、「タクシーチケットがないから、職場に泊まる」なんてことが本省の若い人たちにとって、日常茶飯事になっている状況をなんとかしてあげるべきだと思う。

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2008年3月29日 (土)

和田中の試みの差し止め要求

 さまざまな改革努力による和田中の進学塾SAPIXによる補習サービスに、差し止めの仮処分申請がなされた。

 都の教育委員会が調査する、といったことを言っていたときに、なんとなく違和感は感じていた。都は調査の前に区と事前協議をして解決を図るのが通常のパターンだと思われるので、あえて「問題なし」とするために、調査を行う、というのは何らかの圧力があったのかな、と推測できなくもない。

 この事件、教育などの行政を実施するために、行政がどれくらい苦労しているかを知ってもらえるという意味での意義がありそうである。どんな人たちがどういう動機で反対して、それに対して、和田中側の意見はどういうものか、といったことが明かになってほしい。

 長良川河口堰の例をまた挙げてしまうけれど、流域市町村は、全部、治水のために、長良川河口堰に賛成していた。議会はすべて賛成派である。三重県は当初予測よりも工業用水が必要なくなったから、「負担できない」と言っていたけれど、三重県は流域でない。とにかく地元で流域に住む人たちは、治水の面から長良川河口堰を待望していた。

 「和田中」と「長良川河口堰」の共通点は、極めて少なくても、また、おそらく当事者でない人たちからであっても、反対されることに、行政はいろいろ気を使わないといけない、ということが一つあるだろう。マスコミに騒がれたら仕事が進まなくなることを思い知っていることなどが理由である(長良川流域市町村の悲願を全く報道しないマスコミって何なんだろうと思う。)。

 行政が放っておいても適当にやってくれるので、賛成派は黙っているけれども、反対派に対して、行政が説得を試み、不調に終わったら、強行する、というのが従来のパターンだったように思う。
 そういう状態が長く続き、現在では、反対派が騒ぐことにはたとえ賛成派が多くても、手をつけないのがいい、という状態になってきており、行政の活力が著しく低下してきていると考えられる。
 行政に何かして欲しければ、行政に任せっきりだった賛成派が声を上げることが求められる場面が増えてきている。ついでに、賛成派には、反対派を説得して欲しいくらいである。

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2008年3月26日 (水)

警察批判・・・

 常磐線の荒川沖駅で、指名手配犯により8人が死傷する事件があった。
 
 痛ましい事件である。関係者が警察批判を行うのは心情としてわかる。
 しかし、ネット上で、犯人に対する怒りより警察批判を繰り広げる人たちに違和感がある。警察が無能だと言いたいらしいけれど、犯人の逮捕はそもそも簡単なことではない。単にマスコミの情報を鵜呑みにして批判しているに過ぎないと言えそうである。

 警察がしっかりしていようがいまいが、通り魔的な事件を防ぐことは大変難しいということは常識的に考えればわかることである。状況がつまびらかで失策の有無などが把握できていない段階での批判は、「警察がしっかりしていてれば、あらゆる事件が防げる」という考え方を前提としてないと成り立たない。

 行政なり警察なりに対する批判をネット上で繰り広げる人たちは、行政なり警察なりに、過度に期待している自分に気がついた方がよいと思われる。

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2008年3月23日 (日)

議会と官僚制のバランス

 議会に意思決定する能力があり、官僚制にも能力があれば、議会に対して官僚制がしっかりした提案を出すし、議会としては、それをしっかり消化して意思決定を行うことになる。その結果、国家の運営が上手くいく場合が多い。
 議会・官僚制ともに能力が高いという状態であって欲しいと思う。

 今の日本は、議会の意思決定する能力が十分でない状況になっている。単純にさまざまな判断が滞っていることからみても明らかである。そういう状況での政治主導だから、当然、官僚制の能力も低下する。

 今の日本をみて、18世紀後半のポーランド分割を思い浮かべるときがある。
 大丈夫かな、と心配になってしまう。

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2008年3月22日 (土)

倫理の形成?

 江戸時代、武力行使をしなくなったものの、武士は引き続き軍事組織の一員であった。
 だいたい小人閑居して不善をなすのが通例だけれど、江戸時代の武士は違っていて、いわゆる武士道を発達させた。武士道といっても、主君に絶対的忠誠を誓うタイプのものもあるけれど、主君が天に反すること、つまりは、農民を含む人々を苦しめるようなことをする場合には、主君を座敷牢に閉じ込める、なんてことをしていた。
 経世済民を第一にする武士道が18世紀後半くらいから部分的にせよ形成されていった。
 各地に、立派な武士(というか家臣)の記録は残っているし、銅像を見かけることもある(なんとなく東北に多いような気がする。)。要するに、立派な人がいたし、立派な人を支える人たちがいたわけである。
 時間をかけて、ある種の倫理が形成されていったさまをここにみることができるけれど、武士の倫理(行動様式といえるかもしれない)が、明治政府にそのまま移行したといえそうである。ただし、それでは十分でなく、ドイツの官僚制を参考にしつつ、公正中立な試験を実施することで、中立的で合理性を追求する倫理をもつ官僚を育てていったと説明できるだろう。

 話は変わる。
 イギリスでは、長い時間をかけて、国王や議会を補佐する、中立的で合理性を追求する倫理を備えた集団が形成されていった。国王の官吏だけれど、議会が強かったため、議会を補佐するための組織が形成されつつ、適当な倫理ができあがったと推測する。イギリスにおいては、官僚組織の出現は、公務員の倫理の形成と並行して行われていたといえそうである。

 以上は、組織と倫理の形成について、私がなんとなく考えているものを書いたのだけれど、個人レベルでは、宗教などが倫理の形成に大きな影響をもっていると考えられるだろう。

 長々と書いてきたけれど、国際協力でガバナンスなどのアドバイザーをする人は、こうしたことくらい考えているべきだと思うのだけれど、そうではないらしい。いいのかなあ。。。

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2008年3月21日 (金)

人工透析・・・

 ある新聞が人工透析の問題を指摘する記事を書いていた。
 その新聞は、人工透析の問題点を指摘し、厚生労働省が悪い、と書きたいらしい。

 それはともかく、人工透析には、年間500万円くらいかかり、原則年12万円の負担で26万人がそのサービスを受けている、ということである。人工透析のための1兆円以上の医療費が支出されている。

 所得に応じたものでいいから、自己負担額を増やせばいいのに、と思う(高所得者でも年24万円、だったと思う。)。
 医療関係者に聞いてみたら、患者団体が強いため、この辺りの改革は難しいということだった。つまり、改革の必要があるなら、政治が動くべき、ということだろう。この点、厚生労働省に非を押しつけるのは間違っている。

 とはいうものの、アメリカに住んでいたとき、人工透析へのアクセスが十分でないことが原因で、足を切断した人がたくさんいるらしい話を聞いて(そうした人が通う病院が近くにあった。)、うーむ、と考え込んだことがある。

 アクセスを保障しつつ、財源を圧迫し過ぎない方法を模索する必要があると思うわれる。

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2008年3月14日 (金)

地方の生活・・・

 先日、一日に上下あわせて12本しか電車がない駅を利用した。
 ものすごい田舎を想像していたけれど、比較的開けていた。ただ、広い村に、7000人の人口が50あまりの集落に分かれて住んでいるため、中心街以外は大変不便である。

 帰りの電車で、20人くらいの中学生が乗り込んできた。午後だし、中学生が街に出て行く理由は見当たらない。「落ちてたらどうしよう」という声が聞こえてきて、納得した。その日は、高校の合格発表の日だった。

 その村の中学生は、制服にプラスチックの名札を縫いこんでいる。学校と名前がわかる。ストーカーを誘発するのではないか、とちょっと心配になったけど、そういう都会の感覚を適用するのは正しくなさそうである。
 彼らは、4月から、一日に6本しかない電車で隣接する市にある高校に通うことになる。部活などをしていると大変なので、「部活バス」というのが出ているとのことだった。

 村は農業と観光(温泉など)から成り立っているけれど、人口減少が進んでいる。その村に住んで、近隣の都市の企業に勤務することは大変不便である。今後、人口減少が止まることはないだろう。
 少子高齢化が問題化している。都市に住む私などは、社会保障負担の増大が気にかかる。一方で、地方では、廃村といった、深刻な問題が視野に入りつつある。

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2008年3月13日 (木)

地方分権論議・・・

 地方分権については、現場の人たちは、なべて「やめたほうがいい」と言う。
 彼らは、一様に一部地方議員の質を問題にする。
例えば、・・・

地方議員から町役場は無理難題を持ちかけられる。それが大物議員だったりすると大変である。そうした場合、国土交通省に掛け合う。国土交通省の担当者は、「そんなの法律に照らしてダメ」という妥当な判断を下す。件の大物議員も、国土交通省にダメをもらったらあきらめる。

・・・なんてことが日常茶飯事としてある。

 しかし、地方分権は進める必要がある。それはコンセンサスでもある。
 地方分権が進むか進まないかは、覚悟の問題ではないかと思う。
 地方分権を進めることを唱える学者は当事者ではない。つまり地方分権を進めたら大混乱が起きるとしても、それに対して責任をもつ立場ではない。現状では、どうも政治家も責任をもつ立場かどうか微妙である。少なくとも、野党は政策の失敗で辞任するようなことはないし、与党であっても、トップ以外の辞任は考えられない。
 要するに、大混乱が起きることに対して覚悟を求められるのは、公務員である。しかし、公務員が覚悟を決めることが最も難しい。なぜなら、公務員だけが、予想される大混乱の責任を取らされるからである。
 学者でも政治家でもどちらでもいいけれど、大混乱が起きたら私のせいである、公務員は政治的決定に従っただけである、大混乱が起きても公務員のせいではない、という意思表明がなされ、それがコンセンサスとなったら、公務員は従うものと思われる。少なくとも、抵抗する気持ちは極めて小さくなる。

 現在、公務員が政治的決定の責任を取らされている。そうなると、公務員は政治的決定に関与せざるを得ない。逆に公務員が政治的決定に関与しているから、責任を取らされることにもなる。
 このことは、おかしなことだけれど、「公務員が責任をとる」ということが、公務員が反対しているものにまで及ぶもはもっとおかしい。

 地方分権に即して考えると、地方分権をしたら、すべて上手く行く、といった主張さえなされているが、これはつまり、上手くいかない場合は、それを担当する公務員が悪い、地方分権を主張している自分(学者など)は悪くない、という意味を含意している。そういう主張に対しては公務員は反発せざるをえない。

 また、別の例を挙げると、タクシーの自由化について国土交通省は最後の最後まで反対していた。結局、一部学者の主張、マスコミの主張、世論の圧力に負けてタクシーの自由化が行われた。結果は、国土交通省が心配していたとおりになった。そうしたら、国土交通省はタクシーの自由化は失敗だったという強い批判をマスコミから受けている。自由化を修正しようとしたら、また、国土交通省はダメだ!という批判を受ける。

 こうした構図をなくすまで、改革は進まないし、公務員は抵抗を続けざるを得ないと考えられる。
 政治家、マスコミ、学者を含め、政治的決定の責任の所在を明らかにすれば、少しは話が進みやすくなると思うがどうだろう。

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2008年3月10日 (月)

食糧価格・・・

 原油もそうだけれど、食糧価格も高騰中である。
 小麦、大豆、とうもろこしなどの穀物の備蓄率が1970年代に食糧危機が叫ばれた頃の水準(15%)程度になっており、需給が逼迫している。

 こういうときに、穀物が高騰しているけれども、それが増産につながり、長期的には均衡価格を実現する、特に問題ではない、くらいのことを平気でいう人もいる。これは、価格が高騰していることで、飢餓が拡がる、というような意識を持たない人の議論だろう。

 地球温暖化による干魃化(一方で、耕作可能地の拡大)、アメリカの穀物生産を支える地下水の取りすぎ、人口増加、途上国の経済成長などを考えると、需給均衡の実現は、長期的にみて、戦争などによる人口減というようなシナリオを除けば困難に思える。
 農業生産に必要な「水」一つをとっても、60億人で「足りない」と言っているところに、例えば、100億人で「足りる」ようになるとは到底考えられない。

 こう考えてくると、需給均衡モデルは、食糧については使えないと考えるのが妥当である。そうした場合には、別の理屈が必要になる。市場主義は単純な前提で組み立てられるからまだいいけれど、こういう場所でこそ、知性が必要になってくる。

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2008年3月 8日 (土)

立派な公務員

 職業柄、公務員のスキャンダルには敏感である。
 新聞を読むにしても、公務員のスキャンダルの記事に目がいく。
 そういう状況にいると、「公務員って悪いことばかりしているな」と思うことも多い。全体と比べるとそんなに多くないとはわかっていても、である。

 一方で、しみじみ、日本の公務員って立派だなあ、と思う日がある。
 人事院総裁賞の発表がある日である。ほれぼれするような公務員が表彰されている。
 この賞の選考委員の一人は、「世の中にはなんと過酷な仕事があり、なんと真摯な人がいることだろう」と書いている。

 いわゆるエリートがその国の人たちのために身を捧げるのは、多くの国に共通した行為といえそうだけれど、少し様相を異にする状況がある。これは多分、誇ることのできる事柄だろう。

(参考はこちら)
http://www.jinji.go.jp/pamfu/koumu-syoukai_pamfu.pdf

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2008年3月 6日 (木)

日本にはビジョンが・・・

 日本にはビジョンがない、という話をよく聞くけれど、ビジョンってどうやってつくるのか、国家として何を考えべきなのか、って話はあまり聞かない。ビジョンってなんのためにある、ってことさえ、理解されていないような気さえする。

 それはともかく、覇権を握ることを目標にするというような意志(悪意?)があれば、そのための戦略といった意味でのビジョンが必要だろう。つまり、覇権国家には、ビジョンが必要である。ビジョンのない覇権国家は、単なる粗暴な国家だろう。
 一方、小国は、近隣の大国の動きに翻弄させられ(過ぎ)ないよう自らを守るためにもビジョンを持たざるを得ない。ビジョンのない小国は、従属国家ということになるんじゃないか。

 日本は、覇権を目指しているわけでもないし、小国でもない。そのため、ビジョンをもつための動機が小さいのかもしれない。また、ビジョンは、結果として、何らかの犠牲を払うための理由づけに使われることが多い。東アジアの安定のために、沖縄に米軍基地が展開し市民生活に支障を来すといったことが例に挙げられる。だとすると、切迫感・危機感がない限り、ビジョンなんてない方がいい、ということにもなる。

 そもそもビジョンは何のためにある、というところから議論を煮詰めてからでないと、ビジョンの本格的検討がはじまらないように思える。

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2008年3月 5日 (水)

登りと降り

 日本の経済は、世界での位置づけをみると、登ってきて、降っている、という流れをここ60年くらいで経験している。登る時って、意見はまとまりやすいけれど、降っているときは、意見がまとまりにくいのではないか、という気がする。
 一方、降るときほど、意見のまとまりがないと、その帰結が悲惨なものになると思われる。

 つまり、降るときには、意見がまとまりにくいけれども、意見がまとまらないと、悲惨なことになるわけである。となると、降るときほど、異なる立場間のコミュニケーションが重要になるはずである。

 残念だけれど、日本社会には、危機の際にはまとまるべき、つまり、コミュニケーションを密にしてお互い妥協しながら結論を導き出すべき、ってマインドがどうも稀薄なようである。

 基本的には、楽観しているけれど、本当にまずい状況が訪れたときのことを想像するとちょっと心配である。

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2008年2月24日 (日)

道路特定財源の議論

 道路特定財源の議論って、もう少し整理して欲しい。

 現在の議論の中心は、次のようなものである。
1.「マッサージチェアを買ったのはひどい。寮のために税金を使うのはおかしい。」などの批判
2.利権の温床となっている。
3.無駄な道路が多い。
4.天下り

 それぞれ議論すべきだとは思うけれど、道路特定財源の一般財源化とか暫定税率の廃止とはあまり関係がない。

1.「マッサージチェアを買ったのはひどい。寮のために税金を使うのはおかしい。」などの批判について
 予算があり、そのごくごく一部を福利厚生費に充てることができる、というルールがあり、それを例えば法人契約しているディズニーランドの割引チケットにするのはよくて、マッサージチェアにするのはよくない、というのは気持ちとしては分かるが、問題にすべきはルールの方だろう。「使って良い」というルールがあって、それを少々拡大解釈して使った人を「悪の権化」扱いするのは間違いだろう。会計検査でスルーしているのはルールがあってのことである(なお、厚生労働省は、1970年代当時から年金保養施設について会計検査院から強い指摘を受けていた。それを無視し続けていて大問題となった。これはあきれるばかりであるが、マッサージチェアはこれとは違う。)。
 また、寮については、国家公務員の性格上、辺鄙なところに職場があったりするし、やむを得ずの転勤が多いし、また、勤務地が遠いからといって公務員になることを結果として制限することにならないように配慮する必要がある、といった要因を考慮すべきだろう。寮自体、民間企業とのバランスも考慮した職員に対するサービスということになっている。
 こうした説明さえ「非常識だ」と一斉に批判を受ける状態がいいとは思えない。ちゃんと説明した上で、必要ないということなら、「ではやめましょう」で済む話である。
 道路特定財源が存在することとは関係のない話である。国会の監視が及ばない、という指摘もあるけれど、これも国会が監視するよう仕組みを変えればよい。
 ついでに、ミュージカルも、予算編成でOK、会計検査でOK、政治もこれまで黙認だったのを、今回の問題が持ち上がってはじめて問題にされるのは違和感がある。
 少し視点を変えると、例えば、外交は責任体制は一元化すべきだけれど、全府省がそれぞれ取り組むべき問題だし、実際、全府省が外交にかかわる活動をしている。文化振興も文化庁と地方公共団体だけでなく、全府省でできるところはやりましょー、という性格の問題だろう。批判するのはいいけれど、それならば、批判に先立ち、文化庁と地方公共団体しか、文化振興はやってはダメ、という政治的意思決定が欲しい。

2.利権の温床となっていることについて
 国土交通省は、政治的な圧力を排除したり、そこが汚職の温床にならないよう、呪われたように計画を立てる。国全体、県単位、町村単位、区域単位で計画を立てる。国土交通省だけで計画を立てたら、官僚である以上、極めて合理的な計画を立てることができる。そこに人の息づかいを入れていくのが政治であり、一部逮捕されるような政治家や役人は、そういうところにつけ込んでいるわけである。
 こうした悪意に基づく犯罪行為は取り締まればよいし、現在犯罪行為とされていないがやるべきでないことは、刑事罰を科すようにすればいい。これは刑事政策の問題であって、道路特定財源の問題ではない。

3.無駄な道路が多いことについて
 単純に言ってしまえば、道路財源があるのに、無駄な道路ができ、東国原知事がいうように必要な道路ができていない、という意思決定がどうして行われているのか、を検証することにまず取り組むべきである。同じ税金を使うなら役に立つ道路を造りたい、と道路担当者は考える。無駄な道路を造る身になってみるくらいの想像力は必要だろう。
 いずれにせよ、役に立つ道路を造りたい、という意味で道路担当者と東国原知事との意見は一致する。もっといえば、道路担当者がどんなに悪人であったとしても、「無駄な道路を作りやがって」なんていう批判を受けるくらいなら、役に立つ道路を造りたいだろう。さらにいえば、無駄な道路をつくる手間と役に立つ道路をつくる手間は、前者の方が大変である。無駄な道路を役に立つと説明するための作業たるや、膨大である。悪人でさえ、そんな手間をかけるくらいなら役に立つ道路を作ったほうがまし、と考えるまずである。

 これに関連し、農道と国道が並行して走っていて、無駄である、という主張がある。これはそのとおりである。
 農水省と国土交通省のセクショナリズムの問題とされるけれど、それだけでなく、農林族と道路族がそれぞれに結びついているというのは多くの政治学の本にも書かれている。
 セクショナリズムの弊害の一つの例は、二つの組織が、同じ分野で別々の指示を受ける場合である。この場合、農水省は農業者に便利な道路を造れ、と言われ、国土交通省は生活・産業の基盤になりうる道路をつくれ、と言われている。この二つの指示は、農地と都市が近接している場所のいたるところで矛盾が生じる。こうしたセクショナリズムを批判するのはたやすいけれど、最も嫌な思いをしているのは、農水省と国土交通省の担当官である。
 ついでに、どうして農道ができたのか、振り返ってみて欲しい。ウルグアイラウンドで農業の輸出入自由化が求められ、一定の自由化の見返りに、膨大な「ウルグアイラウンド」対策予算が組まれた。しかも、「ちゃんと使え!」という命令つきで、である。当時の農水省はお気の毒としか言いようがないけれど、それをさせたのは政治であり、それ以上に国民の総意であることは忘れない方がいい。
 本気で批判するのであれば、道路行政を農水省と国土交通省に分けてしまわずにひとまとめにすることを主張すべきである。これも道路特定財源とは関係ない事柄である。

4.天下り
 天下りをなくしたいから、道路を造らない、というのは筋が通らない。天下りは役所の人事管理の問題であり、道路特定財源の問題ではない。
 ただ、関連団体が9000万円の受託費でインターネットの丸写し、というのは言語道断である。これはひどい。問題点を明確にすべきである。そのついでに、官庁がコンサルタントに発注する成果物をすべてチェックして欲しい。ひどいものをいくつか見せられたことがあるので、この際、なんとかして欲しいと思う。もっというと、地方自治体がつくる開発計画は、なんとか総研などのコンサルタントに丸投げしたものが多く、その記述が地方公共団体間でそれぞれそっくり、という問題もあったりする。これもしっかりチェックして欲しい。

 「道路がどれだけ必要か」「無駄な道路をつくらないようにするにはどうすればいいか」ということから議論を始めて欲しい。

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2008年2月23日 (土)

日本の政治家・・・

 いくつかの政治に関わる本を読んでいて、「日本の政治家は狭い利益を追求するけれども、首相になると国益を考える」という趣旨の記述を何度か見かけた。
 日本は平和な国だなー、という感想を持ったし、国益を考えている政治家が少ないとすれば、部下たる役人にそれを期待するのは間違いである。

 一方で、政治家は選挙が気になるので狭い利益を追求するほかなく、長期的に政策に関わり身分も安定し能力も実証されている役人が国益を考えるのにふさわしい、という識者もいたりする。
 これは、明治以来の「超然内閣と言われた時代(議会はむちゃなことばかり言っているから無視しないと国益が守れない)の伝統を汲んでいるのかもしれないけれど、成熟した民主国家ではこうはいくまい。

 現在の手詰まり感、閉塞感の出口は、結局、政治家に国益を考えてもらうところにあるような気がする。

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2008年2月22日 (金)

日本の政策形成の課題・・・

 日本の法律は内閣提出のものが多い、ということを批判的に捉える人たちが多い。

 日本の統治システムは、議院・内閣・行政機関とそのままつながっていて、議院での意見集約を経て、内閣が行政機関に指示し、行政機関が法案をつくり、内閣が提出し、議院が承認を与える、という形になっていることからすると、内閣提出の法案が多いからといってただちに問題ということにはならないはずである。
 議院は納得性の高い決定を下すべきだし、内閣はしっかりと指示を出すべきだし、行政は中立な立場で政策を作らないといけない。内閣提出の法律(閣法)が問題になる場合というのは、3者のいずれかに問題がある場合か、その他のアクターからの不当な介入がある場合、ということになるだろう。

 一方、議員立法については、しっかりしたものが出てくるに越したことはない。特に、行政機構に独自の利益があったとして、その利益が失われるような法案は議員立法の方が適当という気がする。行政機関が中立な立場で行動できない場合はきっとそうだろう。

 アメリカには議員立法しかない。議員が立法を行うわけだから、そのためのスタッフがたくさんいるし、シンクタンクも充実している。
 この方法がよい、と主張する人も多い。

 日本方式とアメリカ方式のどちらがいい、ということは決めにくい。
 日本とアメリカの折衷案がよいのではないかと私は思う。

 アメリカでは、ダイナミックな意思決定ができるけれど、きめ細かさに欠ける。人口の2割、4000万人に医療保険が適用されないこと、とか、サービスの格差の大きさ、とか、行政のきめ細かさのなさについての例はたくさん挙げられる。
 シンクタンクは、大きな政策に方針を示すための支援をすることは得意だけれど、行政が直面している多種多様な現実をそれぞれ解決することは不得意である。

 日本では、ダイナミックな意思決定ができないけれど、行政サービスはきめ細かである。説明するのも面倒だけれど、アメリカから帰国すると、日本の行政のきめ細かさに感動する、という話はよく聞く。翻訳家の山形氏は、「(感動に)むせび泣いた」とさえ書いていたりする。
 これは、行政が直面している多種多様な現実を吸い上げて政策を作っていく、というシステムが成立しているからだろう。人事のローテーションからも、情報の流れからも、現場と政策決定の場は密接に結びついている。
 少し横道に逸れるけれど、社会保険庁の問題は、現場と政策決定の場が遠すぎた、というか、関係が切れていた、というところから生じたといえそうである。厚生労働省でも、政策を決める本省と省の出先機関との人事ローテーションがあり、そうした分野では手堅い行政活動を行っている。一方で、本省と社会保険庁の出先機関とのローテーションはほぼなかった。つまり、社会保険庁の出先機関がどういう状況にあるのか十分に把握しそれを政策に生かしていく、ということができなかったのではないかと推測できる。

 アメリカのダイナミックの意思決定と日本のきめ細かさをどう両立していくかが、当面の課題だと考えている。
 まずは、議院における議論の活性化が必要だろうし、シンクタンクの活躍すべき分野と行政が活躍すべき分野をある程度分けて考えたり、議員立法と閣法の得意分野をよく意識するといったことが必要だろう。

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2008年2月20日 (水)

ダイナミズムの喪失・・・

 ビジョンとかリーダーシップがなくても、行政府はできる範囲で、新しい事態に対応しようとしてきたし、いろんなアイデアを出して積極的に問題を解決しようとしてきていた。

 現在、そういう行政でなくなった。日本から公共部門発のダイナミズムが失われた。理由は主に公務員不信だろう。

 また、大学の研究者から話を聞くと、民間企業と共同研究して新技術を開発しても、日本企業が使おうとせず、アメリカの企業に売る、なんてことが横行している、とか。日本企業もリスクをとって実行する、ということをやめてしまっているのかもしれない。

 官も民も、ネガティブなスパイラルに陥っているようである。
 では、政治はというと、少なくとも当面は、ダイナミズムの源泉になるとは考えにくい。

 このまま日本という国家、社会が縮んでいくのかな、と、だんだん本気で考えるようになってきた。

 

 

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2008年2月 8日 (金)

行政の不作為への批判

 行政の不作為に対する批判が多い。
 エイズとか肝炎の問題は、批判も必要だけれど、どうして起きたのか、といった問題は再発防止のためにもよく考えてみるべきである。

 薬害などについては、問題を早期に発見すること、発見された問題を速やかに解決する行動をとることの二つが重要だと思うけれど、そのためには、業務に余裕がないと無理である。毎晩3時まで働いている人に、問題の芽に注意深く視線を張り巡らせることを期待するのは間違いである。

 行政は経験から学ばない、という批判は、半分くらい当たっている。もっと多いかもしれない。
 しかし、行政がどうしようもない問題だってある。厚生労働省の人員の増強などは行政自身にはできない。人数が少ないから起きた事故であっても、事故後人員を増強しようとしたら、「焼け太り」なんていう批判が一斉に寄せられる。
 行政が対応できない問題を改善するのは行政以外の人たちであって、それは国民、政治家、マスコミだろう。

 医薬品に関する行政まで、市場主義の名のもとに権限を縮小したり、人数をカットしたりするのであれば、事故があったも、行政の責任ではなく、自己責任だ、ということにならないか。
 こうした行政の対応能力の低下を招く施策が推進される限りは薬害はなくならない。

 担当者は何も薬害を起こしたい、と思っているわけでない。できれば防ぎたいと考えている。それができる環境を整えてくれていない、というところから考えてはどうか。

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2008年2月 4日 (月)

ゴジラと自衛隊

 ゴジラが東京湾に現れ上陸し街を破壊しているときに、自衛隊が当たり前に出動しミサイルなどで攻撃するのか不思議だった。
 ゴジラは、他の国の軍隊でもないのに。。。また、自然災害だったら、ミサイルを発射したりしない。

 自衛官に聞いてみた。答えがこれ。

 「自衛隊は、害獣駆除のために出動できます!」

 疑問が解けた。ゴジラを害獣に分類しても誰も文句は言わない。

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2008年1月31日 (木)

議論の前提?

 国の借金が問題だから、国家公務員は給料を下げろ、という意見を聞く。
 国家公務員の人件費はせいぜい4兆円くらいであり、公益法人へのいわゆる天下りをしている人たちをどんなに多く見積もっても、せいぜい5兆円くらいだろう。無茶をして2割減らしたとしても、1兆円である。一方で、国の借金は、800兆円くらいである。
 給与引き下げをやったとしても、ほとんど象徴的な意味しか持たないということだろう。これくらいは前提としておいて欲しいと思う。 

 
 

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2008年1月28日 (月)

ペレット・ストーブ・・・

 環境関係者の話によると、今冬、実施される灯油価格高騰への対策費で、「ペレット・ストーブ」を普及させることができたかも、ということである。
 ペレット・ストーブとは、間伐材を原料とするペレットを燃料とするストーブで、30万円から50万円する暖房器具である。ただし、ランニングコストは灯油より安い。
 しかも、間伐材を利用するので、森林の循環を維持することになり、二酸化炭素排出にカウントされない。

 原油の高騰は、ある種、環境対策を進めるチャンスだったわけである。来冬に備えて対策を講じることはできないか。

 資源エネルギー庁と環境省の共同作業ということになるけれど、実現可能性はほぼないと思われる。これが仮に、「資源エネルギー環境省」なんてものが存在したら、可能かもしれないけれど。

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2008年1月22日 (火)

貞観政要

 貞観政要という古典がある。敬愛する大先輩に解説してもらった。

 中国の唐の時代、皇帝に献上されたいわゆる帝王学の書物である。
 それが、かつてのリーダーの必読書となり、日本には800年頃渡来し、1200年に北条政子が和訳して愛読し、1600年に関ヶ原の前に家康が出版したものである。道元も愛読していたが、日蓮は仏教書でもないのに、「写経」した。大正時代には徳富蘇峰が改めて出版したりしていた。

 なるほどなー、という言葉がたくさんある。

 胡錦涛がよく発言している、「国は人を以て本と為す」(以人為本)もここから、である。
 安きに居りて危うきを思う、とか。創業と守成いずれか難き、とか。

 面白いのは、論語、詩経、書経、荀子などなどを根拠にして、具体的にどのように統治すべきか、かつ、臣下はどのように皇帝を諫めるか、という対話編になっているところである。
 紀元前に書かれた書物に書かれていることを、1000年以上後に実践してみたところ、世界史的にも希に見るような大変素晴らしい統治ができた(貞観の治)ということの記録でもある。

 ついでに、安倍元首相は、親戚の大先輩(たしか、みずほ銀行の元頭取だったと思う。)から、「君の明かなるは兼聴すればなり。其の暗き所以の者は偏信すればなり。」という貞観政要の有名な言葉を引いて、「広く人の話を聞きなさい」というアドバイスを受けた。お友達内閣といわれた、というのは、「広く人の話を聞かなかった」という証拠と取れる。

 古典であるので、いろんなところでいろんなエピソードを見付けることができる。
 なかなか興味深い。
  

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2008年1月19日 (土)

年金問題・・・

 年金問題については、実務的対応が進んでいる。やるべきことははっきりしてきているし、懲罰的な社会保険庁解体も実施される。そろそろ落ち着いて欲しい、と思う。
 人間の考えることって、限りがある。国会だってそうである。防衛省のスキャンダルとインド洋の給油と年金に注意が向きすぎ(とくに年金にばかり注意が向きすぎ)、世論による他の課題への取組に対するエネルギー供給がなくなってしまっている。

 どうなることやら。

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2008年1月18日 (金)

安全保障と環境

 安全保障面で厳しい局面に立たされているとき、環境なんて・・・ということになりがちである。
 過去30年といったスパンで世の中をみると、安全保障面の問題が大きくなっているときには環境が軽視される、という傾向が明らかだと主張する人もいる。多分そのとおりなんだろう。

 しかし、現在では、安全保障理事会で環境が話し合われるようになったりするなど、安全保障と環境が少しずつ一体化している。
 そうなると、安全保障面での問題にかかわらず、環境が持続的なテーマとなることもありうる。
 どういう成り行きになるのか、ちょっと楽しみかも。

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2008年1月16日 (水)

公務員の立場に立って考えてください?

 「相手の立場に立って考えなさい」とよく言われる。これは正しい教育的なアドバイスである。

 しかし、公務員の立場に立って考えてくれる人は極めて限られているような気がする。

 公務員の立場、というのは、中立であり、公平であること、などである。特に、権力にかかわる事柄は濫用を防ぐために、「何をやっていいか」が厳しく定められている。「やっていい」以外のことは「やっていけない」という場合も多い。

 こういう公務員の立場、理解してくれるととっても嬉しい。

 

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2008年1月14日 (月)

問答無用文化

 仕事とは全く別な場所で、たまたま会合のようなものがあり、そこで飲み会があったりしたとき、参加者の一人と話しになった。公務員はけしからん、と強く考えている人だった。やりとりはこんな風。

「公務員の給与は高すぎる。」
「職種が類似する100人以上くらいの民間企業に合わせているけど、それじゃあまずいのかな?」
「民間は平均400万円くらいだ。公務員は何割も多い。どこか間違っている。」
「平均400万円というのは国税庁の資料であり、それには、パートとか、途中で失業した人も含んだ数字なのでどうしても低くなる。比較すべきでないのでは?」
「そんな理屈は通らない。どこか操作している。」

 これはまだましな方、というのが私の実感である。

 しっかりした理屈を示しても、「問答無用」と批判する人は多くなったような気がする。政治家とかマスコミといった、その職業の性格からして、「言葉」が大変重要な人たちでさえ、「問答無用文化」に染まっていないか。
 そうである以上は、どんなに行政府が知恵を絞っても、シンクタンクが頑張ったとしても、無駄であり、徒労である。
 いいのか?

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2008年1月12日 (土)

公務員人事管理改革案(2)

 公務員人事管理改革案が出され、各新聞社が報道している。報道の中心は、「国会議員と行政官との接触禁止」である。

 このことについてしっかり議論して欲しいとは思う。しかし、1月以内の答申を依頼されているという前提にすると、無理難題である。政治や行政の在り方全体にかかわる大変大きな大きなテーマであって、関連して検討すべき事項が山のようにある上、大きく意見が分かれている提案を3週間でまとめるのは無理がある。

 新聞によると、異口同音で、与党と官僚の抵抗が予想される、とある。
 官僚は本当に反対しているのよくわからないけれど、「接触禁止」は歓迎されるようにも思う。
 議員と行政官の役割のねじれが指摘されている。大きなピクチャーを描くはずの政治家が、地元の橋を建設するかどうかに力を注ぎ、事務を担当するはずの行政官が長期的な視野での仕事をする、といったことである。「接触禁止」したら、議員は、橋を建設するといった個別の話ができなくなり、大きな国家の方針といったことに力を注ぐようになる(ならざるを得ない。)。一方、行政官としては、議員全体からの明確な方針を受取ることができ、整合的な政策を実施しやすくなる。これにより、仕事の劇的な効率向上につながる。

 こう考えてくると、行政官が抵抗する理由があまりなさそうな気がしてならない。

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2008年1月 9日 (水)

公務員人事改正案

 朝日9日朝刊には、公務員人事制度の改正案が掲載されていた。

 こういう案が出るたびに、政官関係をどのようにすべきか、ということをしっかり検討して欲しいと思う。

 単純化していうと、現在のように、各議員が行政府と接触して意思疎通を図り、法案などの提案に当たっては、与野党への根回し等を行うというやり方がいいのか、イギリスのように、原則として接触を禁止し、政治から示された方針に従い、行政が政策のオプションを提示し、国会で決める、というやり方がいいのか、ということである。

 鈴木宗男議員と外務省関係が問題になったとき、政官関係の見直しが主張され、国会議員と行政官の「原則接触禁止」という案が議論になったが、各方面からの反対もあり立ち消えになった。
 今回の案も、「原則接触禁止」が謳われている。

 ①現在のやり方がいいのか、②現在のやり方の問題点を修正するのか、③思い切って仕組みそのものを変える(改革する)のか、それぞれのメリットとデメリットを分かりやすく提示すれば、議論も深まると思われる。
 そうした論点の整理を、行政府側がやろうとすると、非難囂々は見えている。一方、政治の側には、さまざまな立場が混在するため、なかなかむずかしいだろう。
 なので、この問題について、学者やシンクタンクに論点の整理をして欲しいと思う。政治や行政から、一蹴されるような論点整理だと困るけれども。

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2008年1月 3日 (木)

防衛省の調達・・・

 防衛省で調達を巡る汚職があった。裁判が終結するまでまだまだ時間がかかるだろう。
 マスコミは容赦ない批判をしている。当然のことだと思うけれども、少し気になるのは、「随意契約悪玉論」である。

 最高度の防衛機密が詰まっている物品まで「随意契約」がダメで、「競争入札」にすべき、というのは、本当にそれでいいのか、一度議論してみて欲しいと思う。
 また、こうした物品を調達するには、相当程度の専門知識をもった担当者が多数必要である。商社に任せることを批判しているけれど、定員削減などによって、商社に任せざるを得なくなったという経緯にも注意を払った方がいい。「商社を挟ませるな」という問題提起は、「じゃあ、調達の専門家集団を採用、育成することができるようにしてください。」と防衛省側は言いたくなるけれど、叩かれるだけだから、主張できずにいる。
 ちなみに、私が知る防衛省の職員は、月曜日に着替えをもって出勤し、そのまま泊まり込み、ソファー又はじゅうたんの上で寝て、土曜の朝に帰る、というサイクルで1年の半分くらいを過ごしている人がいたりする。人数が決定的に少なく、そんな状況で疲弊し切った人たちが、「商社に任せればいいじゃん」と言い始めるのは想像に難くない。

 汚職の再発防止のためには、もう少し冷静に議論していく必要があろうかと思う。単に批判するだけでは、汚職の再発防止につながる体制整備につながっていかないだろう。

 

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2007年12月15日 (土)

消えた年金?

 マスコミが故意に流していないのかよくわからないけれど、「消えた年金」記録は、社会保険庁が発足する前のものもかなりあったりする。つまり昭和17年から昭和36年までのもの、である。原因を辿れば、昭和17年の制度設計がまずかったのではないか、という年金の専門家もいる。その方によると、「安倍首相が半年くらいで解決する、なんて言うのは間違いだった。『東条英機内閣以来60年以上にわたる政府の責任である。そのため解決には時間が必要であるが、全力で取り組む。』と言うべきだ。」とおっしゃっていた。

 人事の観点からいうと、年金制度の対象者の拡大に加え、制度の成熟(支払い対象の増加)に伴って、事務が膨大になっていくのにもかかわらず、人員を増やしていけなかったのも、問題をこじれらせた原因だったろう。
 また、社会保障番号制度(国民総背番号制度)で、事務量を減らし入力ミスを防ごうした動きを、率先して潰したのは、一部の政治家やマスコミだったりする(今でも反対している。)。
 ついでに、国民年金の未納者は4割!などという報道があるけれど、これは、詳しい説明はさておき、実は納付すべき人の5%弱である。意図的に分母を減らし(第1号被保険者に限定)、分子を増やして(失業等による納付猶予を認めてもらっている人を含ませる。)報道している。
 これでいいのか?

 いずれにせよ、社会保険庁を民営化しようが、人数が不足している以上は、この問題、解決するとは思えない。
 もう少し客観的に議論をしてほしい。

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2007年12月12日 (水)

外務省職員公募試験(専門職員相当中途採用試験)

外務省職員公募試験(専門職員相当中途採用試験)の合格者発表があった。実施結果は次のとおり。
  申込者数  88人
  受験者数  68人
  合格者数  22人

 受験者の合格倍率は、3倍程度である。外務省としては、寂しい申込者数ではないかと想像する。

 ところで、あまり知られていないことだけれども、係長級から課長補佐級については、各府省の任命権者(多くの場合大臣)が、規則等で定められた資格要件を満たしている人であれば、自由に採用できることになっている。必ずしも上記のような公募試験による必要はない。課長級以上についてはある程度の審査があるけれども、実は国家公務員の人事制度は大変柔軟なものになっている。

 公務員の長期雇用がなくなっていけば、ここにひとつ、新卒でない人材の市場が出来上がることになるのだけれど、さて。

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2007年12月 7日 (金)

日中韓・・・

 私の働いている部署では、日中韓の行政官の交流も担当していたりする。

 政治レベルでの関係が冷えているときこそ、行政官の交流を進めておくべきだ、という考え方から、交流事業を増やしてきた。

 さて、日中関係も改善し、日韓関係も比較的落ち着いてきている。そうすると、「政治レベルでの関係が冷えているときこそ」という理由はなくなるが、「隣国だから相互理解を進めるべきだ」という理由が作動する。

 要するに、政治レベルで関係が冷えていても、冷えていなくても、交流は増えていく!ということらしい。

 これは望ましいことなんだろう(担当する身としては辛いけれども)。

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2007年12月 5日 (水)

徴兵制・・・

 東国原知事が、徴兵制の必要性に言及した。 
 社民党議員団が抗議しそれに対して知事は謝罪したけれど、マスコミからの批判がほとんどない。というか、徴兵制なんて言ったら逆上しかねないようなマスコミからの批判がないのが不気味である。
 今なら、責任ある立場であっても、徴兵制に言及して大丈夫である。徴兵制に賛成する有名人は、今のうちに、どんどん発言したらいいと思う(いやだけど。)。

 お願いだから、マスコミは、是々非々で対応して欲しい。そうでないと存在価値が著しく損なわれるという危険を重視すべきだ。

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ゴルフ・・・

 平成12年に、国家公務員倫理法及び倫理規程が施行され、利害関係者と割り勘であっても、ゴルフが禁止された。もっというと、例え利害関係者におごってあげても、ゴルフはできない。

 倫理法及び倫理規程は、5年後に見直すこととされていて、平成17年の改定の際、藍ちゃんブームもあって、「ゴルフを目の仇にするな!」と国会議員の方々も主張してくれたのだけれど、ゴルフは禁止のまま決着した。

 今回の防衛省汚職のために、ゴルフ敵視政策を止めることはできなくなった。

 しかし、なんでテニスはよくて、ゴルフはダメなんだ?という議論がある。かなり不思議な規程である。私の立場からすると、ゴルフはどうでもよいけれど、テニスが禁止されないことを願う。

 でも、こんなことを心配しなくちゃいけないのは、異様な姿のように思うけれど。。。

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2007年11月14日 (水)

同意人事

 行政経験がある人が適当と思われる委員会等について、「天下り」という理由で野党は反対した。反対する、しない、は政治的意思だからいいけれど、もっと重要な人事で国会に諮らないものもある。例えば、大使人事が挙げられる。特命全権大使は、外国に対して「天皇の名代」といっていい。憲法で禁止されているけれども、国際法的には、宣戦布告さえ自分の判断でできる。そういう立場の人事は閣議で決定し、極めて技術的な委員会を国会で決定するのは、バランスに欠く。
 もっといえば、大使ポストも「天下り」ではないか?本当に大切な(事務次官のような)大使ポストは別だけれども。いずれにせよ、大使ポストが天下りみたいなことになっている!という批判を与野党共にやってきたのを忘れたのだろうか、と思う。
 どうせなら、そこまで議論してみて欲しいかも。

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2007年11月 2日 (金)

社会保険庁・心の病

 2006年度に、中央省庁において、心の病で病気休暇をとった人の割合が、1.3パーセントだそうだ。
 ヒヤリ・ハットの法則(?)だと、この30倍が予備軍ということになるけれど、そうなると4割の職員について、精神的に差し迫った恐れあり、ということになる。うーん。

 ちなみに、社会保険庁は、6.4パーセントだそうだ。激しい批判が影響しているのだろう。

 社会保険庁は、①キャリアの腰掛、②霞ヶ関採用、③地方採用の3層構造に分かれているといわれ、②と③は、社会保険庁が廃止・解体・新しい組織で再出発、そのまま就職することにも審査有り、ということで制裁を受ける予定である。社会的にも十分過ぎる制裁を受けている。一方、社会保険庁の問題をなんとかできた立場にある人は、①である。話を聞けば聞くほど、②及び③は、なんもできない、しようとしても黙殺されるといった状況だったようである。
 ということは、なんとかできる立場にあった、①が責任を負うべきである。第三者委員会もその方向の報告を行った。しかし、最も制裁を受けていないのは、①である。これに対して、釈然としないのが、社会保険庁への激しい批判が終わらない理由かと思われる。
 そろそろ②及び③に対する批判はやめた方がいいと思う。十分な制裁を受け、これからも受ける。
 どうせするなら、①に集中して批判すればどうか。このままだと、病気休暇が単に増えるだけで、誰のためにもならないと思う。

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2007年10月29日 (月)

競争入札と随意契約

 随意契約はダメー、全部競争入札にしろー、なんてことになっている。
 公共事業でそこそこの大きさのものは、もちろん競争入札にすべきだと思う。

 でも、100万円くらいの公共事業で、入札仕様書を含む入札手続きを行って、割りに合うのかなあ、という気がする。多分、入札コストは1割くらいになろうかと思う。

 研修サービスについてさえ(講師の派遣など)さえ、入札を求められていたりする。特定の研修サービスが必要だから依頼するわけで、まさか、先方に入札してくれ、とは言えない。

 ちょっと行き過ぎになりかかっている。
 いいのかなあ。

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2007年10月26日 (金)

公務員倫理・・・

 元防衛次官の倫理法違反問題とか、財務省職員の集団強姦事件とか、国土交通省職員の銀座接待・懲戒免職とか、不祥事が立て続けに起きている。同じ公務員としてとても恥ずかしいし、がっかりする。

 ヨーロッパには、哲学を学び指導者となるという考え方や、聖書を通じた倫理観の涵養といった伝統もある。
 日本には、四書五経などを読み込んで、指導者なりの資質を徹底して考える伝統があった。しかし、戦後、この伝統が失われた。占領軍が禁止したわけである。

 ブラックレインという映画で、戦後、ヤクザ道などそっちのけの倫理観のない単なる凶暴な連中が出てきた、という趣旨のセリフがあるシーンがあったと記憶している(定かでない)が、なんとなく、四書五経の伝統が失われたことと符合するようにも思える。また、四書五経の伝統がなくなってから教育を受けた世代、だいたい昭和30年代頃の採用者から次官の逮捕者が出るようになったが、これも符合するようにみえる。
 まあ、偶然だろうけど。

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2007年10月10日 (水)

なぜ国家公務員は短期間で異動するの?

 国連関係者から「なぜ国家公務員は短期間で異動するの?」とよく聞かれる。
 私なりに説明すると、おおむね次のとおり。

 組織には、調整や方針策定を行うゼネラリストがどうしても必要である。このため、日本の政府では、毎年200~300名をゼネラリスト要員としてⅠ種試験で採用している(技術系は、特定の専門分野を持っている場合が多いので除外する。)。

 ゼネラリストとして政策の衝に当たるために、さまざまな経験をする。採用1・2年目の丁稚奉公はともかくとして、「官房業務(人事・会計・総務・法令)」「地方」「在外」「留学」「所管業務を2から3つ」などを経験して、やっとまともにゼネラリストとして各府省の政策屋さんとして一人前になれる。
 これらのポストを2年ずつやったとしても15年くらいはかかってしまう。3年ずつだったら・・・。
 かくて、必然的に短期間で異動させることになる。。。

 以上は、若手・中堅の理由付けだけれど、課長クラス以上についての説明にはならない。モチベーションの維持とか、人事をスムーズに流すためとか、局長になるまでにできるだけポストを経験した方がいい、とかいろいろ考えられ、多分、それらのあわせ技ではないかと疑っている。

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2007年10月 4日 (木)

郵政民営化?

 「郵政民営化」というネーミングに違和感がある。
 郵政事業を私企業にするのだから、郵政「私」営化が正しいのではないか?「民が営む」から「民営」とすると、「民」は多分、国民、市民、住民のいずれかであり、民営=公営(国営を含む。)ということにならないか??

 そういえば、国の役所の宅配便はゆうパックと決まっていたみたいだけれど、10月1日の郵政民営化(?)に伴って、ペリカン便、宅急便でもよくなったらしい。少しは影響があるのかな。

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2007年9月18日 (火)

韓国・・・

 韓国に行ってきた。

 旧知の行政学者に会った。公務員にも会った。たくさん議論した。

 韓国の外交通商部の日本課で「過去史」の担当をしている柔和で日本語堪能な若手の外交官に、主に人事についていろんな話を聞いた。
 日本の外務省は少ないといっても5000人程度、実は日本と同じくらい在外公館を持っている韓国は2000人に満たない、ということである。一つ一つの公館が小さいとのことである(国連代表部は大きかったけれども。)。
 また、今のところ、外交官の試験は別立てだけれども、高級人事は各省庁との垣根を取り払ってきている。もしかしたら、韓国も外交官試験がなくなるかも(なくならないか。。。)。

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2007年9月 8日 (土)

プログラム予算

 いつも思うのだけれど、日本政府の予算をプログラム予算にしてもいいのではないか。

 現在の日本の予算は、「細目予算」と呼ばれ、各省に、人件費、旅費、物件費など、たくさんの細目に分けて割り当て、各省は、その費目の趣旨に沿って支出する。基本的には、人件費を旅費に充てたりすることはできない。
 日本や韓国を除くOECD諸国が採用しているプログラム予算では、マンデートがあれば、それに沿って必要な予算が算定される。割り当てられた予算は、基本的には、そのトップが費目にかかわらず自由に使っていいことになっている。

 プログラム予算では、目標とインプットとアウトプットが明確なので、業績に関してトップの責任を問いやすい。一方で細目予算は、必要に応じて予算や人員を組織内で横に動かすことになり、業績を評価しにくいが、費目が確定しているので、LAST COINまで数えること、つまり1円単位でどう使われたかを確定しやすい。実際、日本の会計検査は、成果よりも1円単位で使われた額を確認することの方に重点が置かれている。

 汚職が跋扈している国だったら、細目予算の方がいいだろう。しかし、そうでなければ、費目ごとにLAST COINまで数えるというのは、極めて非効率である。

 それぞれの予算のメリット、デメリットはいろいろあるけれど、少なくとも、目的合理的な組織を指向し、かつ、予算管理を通じた汚職防止を目指すということがメインテーマでなければ、プログラム予算のメリットの方が大きいといえそうである。

 一般論としては、以上のとおりで、これだけでもプログラム予算の方がよさそうである。これらに加えて、現在の問題に引き寄せると、そろそろプログラム予算にした方がいいのではないか、という気がさらにしてしまう。

 現在、公務員の数の削減が問題になってきている。公務員の数がどれだけ必要か、という基準がないために、ある政党が5%削減を掲げたら、別の政党は10%削減を掲げる、という次第である。お金の話になると、歳入・歳出の関係で、非現実的なことはいえないけれど、なにしろ人数については基準がないので、政策における「バナナの叩き売り」が起きやすい。

 OECD諸国では、プログラム予算をとっているため、政治が何かを決定すると、それに対してどれだけの資源が必要か算定し、それを割り当てることができないのであれば、その政策を実施しない、という当たり前のことが行われている。
 現在の日本では、政治から、たくさんの業務量を要する命令とともに、人数の削減を命令される、という状況である。こういう不健康な状態を解消するためにも、予算の仕組みを変えたほうがいい。政治の方も資源をにらんだ決定をすることになるので、より合理的な意思決定がなされやすいだろう。
 
 現在、行政は、膨大な業務を割り当てられても、精神論で乗り切ろうとしている。そういうのは、やめた方がいい。
 精神論は、無茶な量の業務をこなすためではなくて、「こうやって日本をよくしたい」というところに使って欲しい、と思う。

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2007年9月 6日 (木)

懲戒:社会保険庁と旧郵政省

 社会保険庁・市町村での保険料の横領が問題になっている。横領したのに、懲戒を行っていない、ということが指摘されている。
 郵便局だったら、多分、懲戒免職になるケースもあるのではないか、と思う。
 ちなみに、郵便局で、自分の年賀状を30枚程度、印刷した(盗んだんではないよ、念のため)だけで、懲戒減給処分に相当する。
 この落差はなんなんだろう?

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倫理法のあとも・・・

 厚生労働省の地方管区の局長の金品の受け取りのニュースを聞いて、いろいろ考えた。

 金品をもらうことによる効用(嬉しさ)が多分、一般的な人と違う(少なくとも私と違う)。一方で、娘の就職をお願いするのは、気持ちとしてわからないでもない(自戒しよう。)。要するに我慢のしどころは、「娘の就職をお願いする」というところであって、金品の受け取りではない、と思う。

 倫理法の施行後、職務上の関係のない先輩との飲み会でも、必死に割り勘を主張するような公務員が大半だったりする。自分自身もそうだ。そういう立場からすると、親戚であったとしても職務上の関係者から金品をもらう感覚は、「隔絶」している。

 「隔絶」している人をとらえて、「公務員は・・・」と言われるのは、なんだか悲しい。

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2007年9月 5日 (水)

政治資金・・・

 政治資金について1円以上で領収書、という議論がある。これ自体に意見はない。
 ただ、仮に単純ミスであったとしてもバッシングを受けかねない状況になっているのは問題だと思う。ルールが厳しいことと、揚げ足を取ることは別の話である。

 こういう状況って、政治家による公務員に対するバッシングによってマスコミや国民の見る目が厳しくなりそれが政治家に跳ね返ってきたように見えなくもない。ある人が「問答無用」で追及したら、自分にも「問答無用」基準が適用されるわけで、「問答無用」は、相手のためにも自分のためにも社会のためにもならない。したがって、やめておいた方がいい。

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2007年9月 4日 (火)

テロ特措法延長問題

 参議院選挙の結果を受けてテロ特措法の期限延長が問題になっている。アメリカとの関係上重要な問題であるとされ、秋の国会の最重要課題となっている。重要な問題であることには異論は全く無い。ただ、この活動が国際協力の一環と認識すると、減らされたままのODAの扱いとの落差が気になる。

 テロ対策やアメリカとの協力関係のために税金を使うことには政治家の間で相当程度の合意があるけれど、ODAには、そういう合意がないということだろう。
 少し寂しい。

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2007年9月 3日 (月)

利賀村(4) 生産性?

 演出家の鈴木忠志さんが、演劇の訓練について「東京で一月かかるのを、利賀村では2週間でできる。費用もかからないし、生産性が高い。」といったお話をしてくれた。
 東京は市場だけれど、生産地ではない、という当たり前の事実に気付かされた。経済学的にみても、東京から金融センターの機能を除けば、生産性が高くない。第二次産業で何かを生産するには名古屋くらいのサイズが最適でそれ以上だと生産性が下がる、という統計もあったりする。要するに、市場がある場所とその「産業」にとって生産性が高い場所はかならずしも一致しないわけである。

 それでも、市場が大きい・近い、というのは魅力的である。利賀村で会った静岡の劇団に所属する東京出身の女性は「東京に戻りたい。」と言っていたっけ。鈴木さんが頑張ってもなかなか東京への一極集中は止まらないんだろう。

 話は変わるけれど、地方は、QOL(生活の質)という点からは、東京よりもずっといい。しかしながら、人口は職を求めて移動するわけで、たとえ地方のQOLが高くても、東京に人が集中する。こうした中、地方財政がどんどん厳しくなってきているのだけれど、このことは、結局のところ地方のQOLを低下させる。そうすると地方に魅力を感じる人が少なくなり、さらに東京への集中が進むことになりかねない。

 どうしようもない問題なのかもしれないけれど、少々心配である。

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2007年9月 2日 (日)

利賀村(3) 教養?

 さまざまな国の外交官や国連職員と知り合いになってから、日本の哲学教育の弱さにかなり強い懸念をもった。自分自身が哲学が好きなのは、単なる性向の問題に過ぎない、くらいに思っていたのだけれど、哲学を含む教養をしっかり鍛えておくべきだ、と考えた。

 利賀村で演劇関係者といろいろ話しをしていて、これに近い話があった。
 「演劇を志す若い人には、リア王さえ読んでない者が多い。」とか、「世阿弥も知らない演劇関係者がいる。」とか。件のオーストラリア人は、「土方の舞踏も知らない日本人学生がいる。」と言っていた。 
 例えば、リア王の話は、「単に読んだ」だけではなくて、知的格闘がないとダメ、という趣旨かと思う。

 日本社会において知的なものに対する尊敬が失われている、と思うけれど、芸術活動もそうだったりすると物悲しい気がしてくる。

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2007年9月 1日 (土)

利賀村(2)

 利賀村に4泊5日で滞在し、利賀村に本拠を置いて活動している国際的な演出家である鈴木忠志さんの前衛演劇を見たり訓練風景をみたりしてみて、いろいろ考えた。

 演劇は好きだけれども、実は国際的な演劇祭は初めての経験だった。東京で日本人だけを対象にしている演劇とは次元というか、性格というか、いろんな意味で違っていた。

 この演劇について、民宿のおばちゃんは「花火はきれいだけれど、理解できない」と言っていた。一方で、鈴木さんの演劇には、国際的に共通した言語、のようなものを感じる。
 鈴木氏のメッセージは、利賀村住民には届きにくいけれど、ロシアやイギリスや韓国には届いているわけである。この落差が興味深かった。

 鈴木さんの公演の後のパーティーで、オーストラリア人の演出家・大学の先生とお話したときは、お互い、「いいものを見せてもらった」という気持ちで一杯で、英語下手な私でも普通に演劇について議論が出来たりした。同じところに感動していたりしたので、感情レベルでの共通基盤が出来ていたわけである。
 こういうことをできるだけたくさん経験したいなあ、と思う。

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2007年8月28日 (火)

利賀村

富山県の利賀村にきている。
演劇祭、花火大会、熊鍋、岩魚など楽しみ満載である。
立食パーティで、オーストラリア人でケント大学で演劇を教え自らも演出家として活躍している女性と日本の演劇について議論した。
海外で評価が高いのに日本で有名でない日本の演劇についていろいろ考えた。

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2007年8月 8日 (水)

天下り

 天下りが論議されている。
 天下りの絶対数を減らすため「定年まで働けるようにする」、各府省と業界との癒着を断ち切るため「各省庁による就職の口利きを行わず、人材バンクに一元化する」、この二つがポイントらしい。

 さて、日本ではかつて(50年以上前)は公務に人材が集中していて、民間企業から引く手あまただったらしい。実際、国家公務員だった私の祖父も、退官後蟄居を決め込んだものの、依頼を断り切ることができず、企業の役員なんぞをやっていた。
 そうこうするうちに、官民の癒着が問題になり、就職制限が設けられるようになった。簡単にいうと、退職後2年間所管する業界への就職を原則として禁止する、というものである。つまり、金融行政一筋に仕事をしていた公務員に、金融機関に就職してはならない、と言っているわけで、転職をしたい公務員はかなり辛い立場に立たされる。退職後2年間、無職というわけにもいかないし、全く別の仕事を探すことは難しいし知らない業界だとリスクも大きい。一旦別の仕事につき2年も経つと専門知識の衰えもあるだろうし、都合よく仕事が見つかるとは限らない。
 こういったこともあって、本意でもないのに公務員を続ける人も多いだろう。そうして天下りの斡旋を受ける。これは、本人のためにも業界のためにも国民のためにもなっていないと言えそうである。不幸である。

 なお、欧米諸国の対応は、日本とは異なる。例えば、金融行政をしている人は金融機関に転職する。その代わり、転職前の省庁に便宜を図るよう口利きを行うことは禁止されている。日本はこういったところで独自性を発揮しているようにみえる。

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2007年8月 3日 (金)

生活保護・・・

 生活保護の支給拒否や辞退強要などの問題をワイドショーが取り上げていた。地方自治体の対応の批判がメインテーマだった。
 コメンテータのお話が興味深かった。
 まず、「その地方自治体には暴力団をはじめとして不正受給者が多く支給基準を厳しくしている」というリポータの報告に対して、「それとこれとは話が違う」と言い切っていた。
 本当にそうか?行政も国民も不正受給者の被害者じゃないか?そのあたりに根本的な問題がないか?とか、突っ込みたくなる。
 また、「地方自治体の対応が厳しいのは、厚労省の指導が厳しいからであり、厚労省が元凶である、社会保険庁と同じ」といったコメントがあった。
 厚労省の指導が厳しいのは、支出を抑制したい財務省のせいであり、財務省が厳しいのは財務大臣を含む内閣にせい・・・と考えるのが妥当な線になるはずだけど、どうして途中で止めて厚労省を犯人扱いするのか、よくわからない。社会保険庁と同じ、というのも余計にわからない。

 話は変わるけれど、離島移住ブームらしい。宮古島とか石垣島に移住する人が増えている。しかし、移住しても職がないため、生活保護を受けることになる若者が増えてきており、これが問題化しているとのことである。行政の立場からすると、自立努力を促そうにも島には職がないし、「東京に帰れ」とは言えない。そうなると生活保護の受給を認めることになる。
 離島に根を下ろし、夫婦で生活保護を受けて生活をすることは、やりようによってはとても楽しいと思う。地域に根を張ることができれば、非市場的な物品・サービスのやりとりがあるので生活保護基準でもそう困らない。
 いいのかなあ。。。

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2007年7月21日 (土)

たくさん聞いた/サイン入り

 いろんな人からたくさん話を聞いた1週間だった。
 いろいろ考えた。以下、順不同。

○武器輸出3原則ってあるけれど、武器を輸入していることとのバランスってとれるのだろうか?

○地雷は中国製が多いけれど、製造物責任って問えないのかなあ?

○国家って危険なものを使って、叡智でもって、それよりも大きな危険を防ごうとするけれど、危険なものをもつこと自体禁止することをどう考えるべきか?

○原子力発電所に消火設備を整えようとしたら、運動家から「絶対安全なのにどうして消火設備があるんだああああ!」と批判されて、消火設備を整えてないとしたら、どう考えるべきか?

○日本は、戦後、キャッチアップと言っていたけれど、追い抜かれる局面を迎えていて、身の振り方が難しそうだ。

○障害者福祉の予算が削られているのだけれど、財政赤字が結局の理由らしい。財政赤字のしわ寄せを障害者に引き受けさせていいのだろうか?

○100年余り前、義和団事件の際、8カ国の「多国籍軍」が
介入したけれど、そのうち7カ国は現在のG8サミットのメンバーだった。しかして、この先、日本は、G8でいられるのだろうか。

 やれやれ、暗い話ばかりである。

 話は変わるけれど、いろいろあって、一言添えたサインを7つ書かされる破目になった。しかたないので、次のようなことを書いた。あ、配ったのは飲み会の席で、です。
 「一日一捨」(毎日ひとつずつ煩悩を捨てよう)
 「酒の匂いのするところならどこへでも行くべし」
 「食うことは勝つことだ」
 「男の価値は飲んだ酒の量で決まる」
 「無芸大食を誇ろう」
 「朕の新儀は未来の先例たるべし」
 「酒は百薬の長、されど、万病の元」

 やれやれ。

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2007年7月12日 (木)

経済学者・・・

 久しぶりに懇意にしていた、経済学の先生と会った。
 この先生は、そこそこ有力な学会の理事長を務めたり、いろんな審議会の委員を歴任していたりする大物(?)らしいのだけれど、私は彼に対して、いつも好き放題言ってきた。
 例えば・・・、
 「エッセーじゃなくて、論文を書いたらいかがでしょう?」とか、「無理にアカデミックにしようなんて考えない方がいいですよ。」とか。

 この「エッセーじゃなくて・・・」という言葉は少々応えたらしく、かつて出版した本の前書きに、「一見エッセー風の記述法をとっているが、・・・」などといういい訳じみたことを書いてあったりした(この本、翻訳が決まったらしい・・・。)。

 今回は、国連大学の近くのしゃぶしゃぶ屋で、出版計画を聞かされたとき、「意味のある本を書いてくださいね」と言ったら、割り箸が飛んできた。
 やれやれ。この僕の口の悪さ、なんとかならないか。

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2007年7月 3日 (火)

シンクタンクな人たち

 友人の出版記念パーティーに行ってきた。
 日本にシンクタンクを根付かせようと20年間も踏ん張っている人である。立派・・・。

 パーティーに参加している面々とは、かつて同じような夢をみていたのだと思うけれど、今は距離を置いている。立派な方がいる一方で、「?」とか、「???」という人も多いことも理由の一つである。それに加え、どうも共通して、市場原理が好きで、アメリカが好き、というところがテイストに合わない。

 市場原理が好きな人は、市場を信頼し、公共部門を縮小するわけだから、政策を考える需要が少なくなるだろう。
 そもそも日本には、人口比にしてアメリカの半分くらいの公務員しかおらず、実行できる政策資源が限られていると考えたほうがいい。つまり、いいアイデアがあっても実行のための資源が十分でないと考えたほうがいい。
 また、日本は、アメリカのように、例えば、イラクに戦争を仕掛ける、といった大きい判断をしないわけだから、そういう大きい判断を支える実務的研究の需要がそもそも少なくなりがちである。

 こう考えてくると、シンクタンクは本当に必要か?といったところから議論をし直してもいいのかもしれない。

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2007年6月19日 (火)

消費税導入

 消費税導入の政策決定過程についていろいろ読んだり、話を聞いたりする機会があった。

 当時、社会党の土井党首が消費税導入について「ダメなものはダメ」といったもの言いで、支持を集め、選挙で大勝したことを覚えている人もいるかもしれない。しかし、当時の社会党の内部の税制に詳しい人たちの間では、消費税の導入は妥当な選択という立場を取っていた人たちもいたとのことである。土井党首は、そういう党内の消費税賛成論者を押さえ込んで、大勝を勝ち取ったことになる。

 土井党首の行動は、政治家としての当然の行動の範囲に入ると思う。ただ、こういった形での勝利が、社会党のあとあとのゴタゴタ・分裂騒ぎにつながったのかも、と考えることもできそうである。
 なお、現在も元気に活動している社会党出身者の思い浮かべると、なんとなく、「税制に詳しい人たち」といったもともと専門性の高かった人たちのように思えたりもする。

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2007年6月 4日 (月)

海上自衛官・・・

 海上自衛官の方々とお話する機会があった。
 こんな調子である。
 「(映画)亡国のイージスってリアルに描かれていますか?」
 「ストーリーはちょっとねえ。。。真田広之のような先任伍長がいてくれたらいいのだけれど、なかなかいません。また、幹部自衛官が情けなく描かれているのが残念。」
 「若い自衛官が問題を起こして警察に連れて行かれそうになるのを土下座して止めるところがありましたが、あれは本当です。」

 「イージス艦が電波を発するとき、前に立ったら、電子レンジのように熱くなる、って本当ですか?」
 「本当です。」

 「自衛隊の船には、金剛(こんごう)とか、旧帝国海軍の船の名称がつけられていますよね。今後、「大和」とか、「武蔵」といった名前を付ける予定はありますか?」
 「いやー、あっはっはっ」

 答えにくい質問はしてはいけない、と思った。

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2007年5月20日 (日)

ちょっと左派?

 おおざっぱにいうと、東京大学と京都大学について、法学部と経済学部は、世界を二つに分けるとすると、全体の雰囲気は、左派に属すると思う。マルクスがどうのこうの、というつもりはない。単に、弱者を切り捨てない、むしろ大事にする公共政策、経済政策を考える雰囲気があった(今はなんともいえない。いわない。)。このこと自体、批判を受けることも多々あった。
 数日前、某大学(バレバレか)の先生とこの話になり、いろいろ考えた。

 政策企画立案者(とりあえず、政治家は、政策承認者、と単純化しておく。)の多くは、「東京大学や京都大学の、法学部と経済学部」の出身者が占めてきた。これらが弱者に優しい、というのは、その国や社会にとって、大変な幸福だと思う。

 かつての首相ではないけれど、「寛容と忍耐」で政策立案者は頑張ってきていた。政策立案者(単純に言えば、役人)になるのは、いいことはない。天下りを含めても、給与について、同期相場に勝てないし、ものすごーくきつい仕事をさせられるし。「いいこと」があるとすれば、「この社会のためになっている」という満足くらいである。

 現在の激しい政策企画立案者批判(役人批判)により、公務員人気が無くなった、といわれている。人気が無くなることについては、私はあまり心配していない。
 心配しているのは、政策企画立案者が、ごく一部の不届き者のために行われる激しい批判により、この社会の構成員に共感を持たなくなることである。「もう知らないよ」という態度にならないか。
 こういうことを少しくらい心配してもらってもいいのかも、と思う。

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2007年5月18日 (金)

韓国の年金・・・

 韓国の年金制度が整備されてきたのは、1990年頃からである。
 日本以上の少子高齢化で、年金制度の本格開始直後に破綻!なんてことを想像していた。しかし、そうではないらしい。
 年率4パーセントくらいの経済成長のおかげでなんとかなっている、とのことである。逆にいうと、それくらいの成長がないと年金制度が立ち行かないかもしれない、とのことである。

 経済成長って、こういった問題を解決するわけである。1950年代、60年代には、日本においては、産業の二重構造の問題を改善してくれたし。
 政府が経済成長を必死に願うのもよくわかる。

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2007年4月19日 (木)

行政への暴力

 市長銃撃事件には暗澹たる気持ちにさせられた。
 今朝の新聞に行政への暴力(脅しを含む。)についての特集があったけれど、公共部門に身を置くものとしてはいろいろな話を聞く機会が多い。

 工事事務所にはテレビカメラが取り付けられている、とか、ある部署は個人情報保護法導入前から名簿を作成していないとか。公権力の行使に関わる戸別の訪問は、二人一組でアポ無しで行くとか。

 予め把握できている組織的な暴力であればある程度の準備ができるけれど、行政に対する暴力は、多くの場合、組織的なものではなく、個人レベルのものだったりするから対応が困難である。

 こういう実態は、驚くほど国民の間に共有されていない。しかし、このことは、行政コストを極めて高くしている。税金の使われ方に興味があるのであれば、ここにも光を当てるべきだろう。

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2007年4月18日 (水)

韓国の公務員4

 韓国に出張中、向こうの政府の局長さんとたくさん軽口を叩いていた。

(局長)韓国にはトラはいなくなったと思うかもしれないが、各家庭に1頭ずついる。 日本はどうだ?
(私)他の家庭がどうなっているかしらないが、私の家には、将軍(General)がいる。
(局長)そうか。ということは、君は兵士(Soldier)か?
(私)そうだ。そういえば、カーライルという人が、どんな勇敢な将軍でも、妻の前では一兵卒に過ぎない、といった趣旨のことを言っていた。

 こういうやりとりが成り立つのは、文化的に近いからかなあ・・・。

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2007年2月28日 (水)

韓国の公務員2

 一般に、韓国人は教育熱心だと言われる。その通りだと思う。
 また、公務員について、日本と大きく違うのは、公務員に対しても教育熱心であることである。
 とにかく研修に力を入れている。韓国では局長直前の公務員を1年近く研修施設に送り込んで研修をしたりしているけれど、こんなことは日本では考えられない。組織内の勉強会活動を促進するルールもある。昇任に当たって研修受講を条件としたりもしている。在外での研修についても、韓国の公務員は、年間300人くらい大学院への派遣があるが、日本では、130人程度である。公務員の定義にもよるけれど、人口規模から類推すると、日本の5倍くらいの留学の比率になろうかと思う。国際社会でのプレゼンスという観点から、そのうちに日本より韓国が優位に立ちそうな気がする。

 日本と韓国の執務室は、大部屋が一般的である。日韓の公務員とも、こういった環境の下で、よく言えばOJT、悪く言えば徒弟制度により仕事を覚えていく。ここで問題は、日本は、外部での研修(Off JT)の機会が限られ、韓国ではその機会が多い、という違いである。
 全体として私の印象では、おおむね、日本はOJT偏重型、韓国は、OJTとOff JTのバランス型の人材育成の方法をとっているといえそうである。

 OJT偏重型のデメリットの一つとして、「変化への対応が遅くなる」ということが挙げられる。このことと、韓国の政策展開の速さを考え合わせると、韓国における人材育成の在り方について、なんだか納得できるところもある(研修カリキュラムを眺めていると、大統領の方針の徹底を目指すようなものも多い。)。
 それにしても、日本の公務員について、もう少しOff JTを活用した人材育成に意を用いてくれないか、と思う。

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韓国の公務員3

 韓国の公務員の知り合いと話していて、「××のトップの○○さんは、試験が1番だったですよ。」なんて話してくれた。「?」と思ったが、××の組織に属する別な人に「○○さんは、一番で入ったんですか?」と聞いてみたら、「そうなんです。」と満足げな話が返ってきた。
 
 興味深い。40年くらい前、試験が1番だった、ということへの強い意味づけがあったろうし、かつ、現在でもそういう意識がある、ということに加え、「試験が1番」ということが、事務次官になった後でも重要な要素と見なされていると考えた。
 このあたり、「大きく変わっている韓国の中でも変わらない部分」じゃないだろうか。一方、韓国では、急速に成果主義が導入されてきている。成果主義がワークしたら、試験が1番、ということの比重が下がるはずである。変わるのか変わらないのか、興味がある。

 いずれにせよ、公務員試験や大学入学試験に対する並々ならぬ思い入れはすごいと思う。
 大学に関しては、韓国にはセンター試験のような試験があるが、その試験の朝は、サラリーマンは出勤時間を遅らせる、試験に遅れないようみんなで協力する、離島などでは軍用ヘリが受験者を運ぶ、なんてことになっている。
 日本では、電車に乗り間違えた受験生のために通常止まらない駅に止めた車掌が問題になったりするけれど(多くは好意的)、韓国では、「止めるのが当たり前」ってことだろう。

 また、韓国では、公務員は、こういう試験の選抜をくぐり抜けてきた勝者たち、ってことになりそうである。子女にならせたい職業の1位になるのも分かるような気がする。

 ついでに、中国は近代化のために公務員試験(科挙)を止め、日本は近代化のために公務員試験(高等文官試験)を始めたと言われる。韓国はどう考えればいいのかわからない。近代化と公務員試験の在り方に関係がないと判断したのだろうか?「前近代的な制度」に否定すべき理屈がなかったのか?今度、韓国人の知り合いに質問してみよう。
 さらについでに、韓国の場合、公務員への採用について、ジェンダーバランスについての努力目標があるけれど、「地域バランス」という考え方もあったりする。これは地域的な縁故主義が強いことを示しているように思うけれど、なかなか難しい問題かもしれない。
 日本では、さすがに地域バランスという考え方がない。しかし、「いわゆるキャリアの採用が東大に集中することが官僚をダメにしている」と一斉に批判していたマスコミ・世論に抗しきれず、東大からの採用を抑制することを閣議決定したりした。現在は、東大生に「受験してー!」とお願いしている状況である。やれやれ。

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2007年2月27日 (火)

韓国の公務員?

 このところ、東アジアモノの本を読んでいる。韓国の公務員との仕事上の付き合いが急に増えたのが理由である。

 半島モノを読んでいると、日本を離れている間に日本国民の耳目を集めた事件(拉致被害者の帰国とか)をおさらいしているような気持ちになったし、米朝協議などにみられるアメリカ政府内の政策形成過程に興味をそそられた。

 東アジア共同体に関する本もいくつか読んでいったら、シンクタンク代表の知り合いが一部を執筆している本を見つけた。その人は、「反中国」だったのが、いつの間にか「親中国」に衣替えしていた。かつてスポーツクラブでよく見かけていたのだけれど、最後に挨拶したのは半年以上前だったっけ。ちょっと話を聞いてみたいような気がする(嫌がるかな。)。

 また、韓国の年金関係の本を読んでいたら、いろいろ説明があったが、年金が成熟したとたんに破綻する危険があるように理解した。ラフに言えば、日本の場合、「年金制度導入→成熟→少子高齢化」の順番だけれど、韓国は、「年金制度導入→少子高齢化+成熟」なんてことになりかねない。日本よりもドラスティックな解決をするんだろうな、と何となく考えたりする。
 ついでに韓国の世論調査をみていたら、2006年11月から12月に行われたものでは、子女になってもらいたい職業として、公務員が第1位だったそうである。しかも、その比率が43.1パーセントだそうだ。第2位の教師・教授の14.8パーセントの3倍程度である。
 いやー、驚いた。

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2007年1月25日 (木)

給食費・年金掛金

 給食費の未納が問題になっている。
 国民年金の掛金の未納も問題になっている。
 この二つ、パラレルだと思う。

 税については、所得税を含め会社という組織が間に入ることがほとんどなので、徴収の確保が難しくなってきているわけではない。
 しかし、国民年金はそうはいかない。
 国民年金を所管する側の立場に立つと、生活に困っているわけでもないのに給食費を収めないことが平気で行われるようになっている世の中で、国民年金の掛金がかつてのように徴収できるわけがない、と言いたくなっていると思う。
 要するに、徴収にかかる手間がものすごく大きくなってきているために徴収率が下がっているのに、人員を増やしてくれない。それどころか、徴収率が下がったことを未納者でなくて、役所(社会保険庁)のせいにする。
 国民年金の掛金の未納について、社会保険庁が悪いと断ずるのではなく、まず、納付の義務を果たさない人たちに対して批判を行うのが順序ではないかと思う。
 徴収に困っている役所を批判し、納付の義務を果たさない人に甘い態度をとることは、この社会のために良くないとさえ思う。

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2006年12月31日 (日)

飲酒・酒気帯び運転

 飲酒・酒気帯び運転が社会問題になっている。
 公務員が酒気帯びで捕まったら、一発で懲戒免職!なんてことになりつつある。企業でも厳罰化が進行している。

 厳罰化は、もうかれこれ、5年くらい前から進んできているのだけれど、どうしてこれだけの罰を受けるのに、後を絶たないのだろうか、と不思議な気がする。

 それはさておき、警察もいろいろ手段を講じてきている。
 朝まで飲んで車で帰る悪質なドライバーもいる、ということで、彼らを捕まえようと検問を実施したところ、朝、出勤する2日酔いの人たちを多数捕まえることになったとか。
 車で出勤をすることが多いので、気をつけよう・・・。

 そういえば、飛行機のパイロットは、飲酒後10時間は乗務してはならない、というルールがあったっけ。痛飲したら、8時間ではアルコールが抜けない可能性があるとのことである。

 ついでに、国家公務員の飲酒・酒気帯び運転により検挙される人の割合は、平均の半分程度である。報道をみていると、国家公務員ばかりが飲酒運転をしているような印象さえ受けるが、そうではない。
 こう見てくると、国家公務員への期待の裏返しという気がしてくる。

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2006年12月28日 (木)

道路特定財源 3

 高速道路の整備計画は、1万4千キロと閣議決定されている。その上で、コスト・ベネフィットの高い順に高速道路を整備することになっている。いつか「地方」にも高速道路が行く、というお約束の下、首都圏や近畿圏などが、「地方」よりも先に着工し完成する、ということになった。
 かつて、東海道新幹線や東名高速道路などの建設では、政府は、世界銀行などから大きな借金をした。当時は、半分は農業人口であり、自分たちの利益にならない新幹線や高速道路の建設を納得するためには、いつか「地方」にも来る、というお約束が必要だったわけである。
 「地方」は、高速道路の建設を待っている。そのお約束を大事にしている国会議員(いわゆる道路族)を選挙で選び、政府にお約束の履行を迫っている。

 この約束を破棄していいのかどうなのか、ということが、高速道路建設の問題である。民営化とか分割とか一般財源化いった問題は、本質的な問題ではないだろう。

 マスコミは、道路族が利権を守るために行動している、というように書く。確かに、利権と結びついている場合も多いように思う(見たわけでないのでよくわからない。)。しかし、問題はそれだけではなくて、特に都市の住民に向けて、「お約束をどうすべきか」という問題を伝えて欲しいと思う。そうでないと、「東京」と「地方」の意識の差(誤解)が無駄に大きくなるように思えてならない。

(付け加え)
○ 高速道路がある、というのは、企業の誘致の必須条件のようになっている。「地方」のために、そういう条件を整える必要があるかどうかも議論した方がよさそうかも。
○ 広島のある町が雪のため孤立し、物資をヘリコプターで運搬する、ということが子供の頃にあった。高速道路が出来てからは、雪かきが簡単なので、そういう必要がなくなったりした。こういう副産物もあったりする。
○ 日本海側では、有事の際に必要な道路の確保、という観点からも整備が必要という議論があったりする。「逃げる人々と戦車がすれ違える道路を作るべき」なのだそうだ。

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2006年12月17日 (日)

徴兵制

 日本は、近代化のために、試験を導入したけれど、中国は、近代化のために試験(科挙)を廃止した。目標は似ていて、やっていることが反対、である。

 徴兵制についても同じようなことがある。
 日本では、「軍国主義の復活」と認知されるだろう。多分、軍国主義を復活させようと為政者が考えない限り、徴兵制は敷かないだろう。
 一方、いろいろ話を聞いていると、徴兵制を軍隊の民主化のために実施している、という考え方をとっている国もあるとのことである。職業軍人に兵力をゆだねるのは危険だ、という考え方は、わかりやすい。

 世の中っていうのは、えてしてこういうことが起こりがちである。国際協力をやっているひとって、こういうことをしっかり考えておく必要があると思う。
 どこかの機関みたいに、特定の思想を押し付けるような協力ってやっぱりおかしい。

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2006年12月16日 (土)

韓国と合併?

 韓国の公務員の方々と討議する機会があった。
 会議終了後、私と韓国の方々4人ほどで立ち話をしていたら、一人が「東アジアで、日中韓の緊密な協力が必要じゃないか」というような話をしてきた。
 そこで、ついつい「いたずら心」がもたげてきて、「中国に対抗するために、日本と韓国がくっついてしまった方がいい」と話した。一瞬、場が凍ったのがわかった。その上で、「初代大統領は、是非BoAで。」と言ったら、4人とも大笑いしてくれた。
 受けたからいいけれど、あんまり余計なことを言わない方がいいかな、とあとで反省した。

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2006年12月13日 (水)

道路特定財源2

 揮発油税というのは、ガソリン1リットル当たり48.6円である。消費税と二重課税になるので、揮発油税があるために、ガソリン1リットル当たり50円程度の負担がある。物品税としては、かなりの高負担である。これは、道路の使用者に道路建設・整備の費用を負担してもらう、というお約束に基づいている。
 この財源を一般財源化するのは、当初のお約束を反故にすることになるから、正当化しにくい。全く別のお約束を立てる必要がある。そこから議論を始めて欲しいと思う。

 自分なりに議論のスタート地点に戻って、揮発油税の廃止を除外して考えると、例えば次のような対策が思い浮かぶ。

 揮発油税を道路目的税ではなく、環境目的税に衣替えするというものである。
 経済学者の宇沢弘文氏によると、計算の仕方にもよるけれど、たしか、自動車一台当たりの社会的コストは、1千万円くらいなる、なんて主張をしていた。それくらいの環境負荷があるのであれば、揮発油税くらいの税金を払って、環境対策を使うものいい、と理屈は立つ。
 激変緩和が必要なのであれば、当初は8割を道路、2割を環境、というように、経過措置を導入すればいい。また、環境対策といっても、技術開発にも振り向ければ、技術立国としての政府の方針にも沿う。さらに言えば、環境汚染が深刻は開発途上国の環境対策に用いてもよい。

 不思議なのは、環境関係者がこういう主張をしないことである。反対する人も多いけれど、賛成する人はもっと多いと思う。
 役人からみても筋は通っている。つまり、役人はこの案には反対しにくく、決定が政治に委ねられる問題、ということである。

 なんて書いたけれども、私自身は、環境目的税というものそのものに賛成でも反対でもない。どちらかというと、ガソリンを日本が入手できるのは世界の安定のお陰だから、世界の安定のための税金!というようにして欲しい、なんて夢物語を考えている。そういう税金を一つあるだけで、国民の意識はかなり変わると思う。

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2006年12月12日 (火)

裁判員制度の導入

 裁判員制度の導入が近づいているけれど、今一歩、この制度に対しての関心が高まってないような気がする。

 類似の制度は、アメリカにある陪審員制度だけれど、アメリカでは、陪審員によるか、裁判官によるか、選べることになっている。
 あまり大きな声でいえないけれど、アメリカでは、自分が潔白である場合には、裁判官による審理を希望し、潔白でない場合には、陪審員による審理を希望する、と言われている。
 要するに、陪審員によると、判決が「ブレ」る可能性があるということを経験的に知っているからだと思われる。

 こういう「ブレ」というコストに見合ったベネフィットはどこにあるのだろう、と考える。
 「ブレ」によるコストは、潔白の人を有罪とし、潔白でない人を無罪とするように、当事者や被害者に直接及ぶ。一方で、ベネフィットは、裁判官が、世の中の人と接する機会を増やすことで見識を高め、よりよい司法サービスを提供していく、といった間接的なもののように思える。
 少なくとも、「ブレ」のコストを引き受ける人と、ベネフィットを享受する人が異なる。時に回復不可能な打撃を受ける人も出てくるだろう。

 日本の法務省や裁判所は、裁判員制度の導入のため、もの凄く気を使っている。私としても、一国民として、「ブレ」のコストをできるだけ小さくなるように願う。

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2006年12月11日 (月)

道路特定財源

 道路特定財源に関して、政府が公約だった一般財源化を与党の反対により実施できなかった。それをマスコミが批判的に報道している。
 あまり聞きたくない話なのだけれど、いくつかの新聞を読んでみて、いやな気分になった。ここまでくるとどうでもいいのだけれど、基本的事実だけ書いてみる。

1.揮発油税(ガソリン税)は、道路を建設するために、ガソリンに大きな税金を賦課するものである。つまり、道路の利用者が道路のために大きな負担をする税金である。優れて受益者負担の原則に則った税金である。一般財源化するというのは、税の公平の観点から、道路利用者に負担を強いるのは正当化されない。要するに、道路建設の必要がなければ、減額することが約束されている税金である。

2.「国には800兆円の借金があるから無駄な道路に使う余裕がない」という主張がみられるけれど、通常の道路建設による借金はほぼない。

3.なお、道路公団は、財政投融資による高金利での借り入れを余儀なくされている。つまり、郵便貯金による財政投融資制度のため、市場からは2パーセント程度での借り入れが可能なのにもかかわらず、5、6パーセントの金利での借り入れを強制されている。要するに、高速道路料金が高いのは、道路公団のせいではなくて、財政投融資による高率の金利が原因である。

 まとめると、
1.目的税を目的を限定しない税に振り替えるのは、公平の観点から問題が大きい。
2.800兆円の借金は、道路建設のために生じたものではない。
3.むしろ、高速道路は、財政投融資制度が破綻しないために貢献している。つまり、国家財政に貢献している。

 うーむ。もう少し考えて欲しい気がする。

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2006年12月 8日 (金)

公務員批判の潮目に変化?

 諸君07年1月号に「「公務員」はダイエットがお嫌い」という対談記事があった。二人とも、公務員を批判してきている方である。
 全体を通して、公務員については、国より地方が悪い。地方は議会がまずい。霞ヶ関で働く役人には同情する、といった調子だった。
 何でも公務員が悪い、という論調に少しずつ変化が生じてきているように思えた。

 もともと、公務員バッシングが目的の特集のはずなのだけれど、次のような公務員擁護ととれる発言もあった。

 「そもそも八百兆円近い財政赤字はなぜ発生したのか。これは何も公務員の人件費が膨らんで借金を作ったわけではありません。最大の原因は、バブル経済崩壊以降の財政運営の失敗でしょう。(中略)公務員の給与カットや人員削減を考えるのであれば、その前に、財政赤字をここまで積み上げた政治家、高級官僚たちの責任を追及すべきです。むしろ、いまの役所叩きで一番喜んでいるのは、まんまと責任逃れをした政治家たちではないか、と思えてなりません。」

 私、公務員なので、なんともコメントのしようがないのだけれど、ただ、八百兆円という額は、国家公務員の人件費にすると200年分くらいである。つまり、公務員の人件費の削減による財政再建効果は微々たるものである。こういう基本的事実から物事を考えて、対策を考えるのが妥当だとは思う。


(付け足し)
 日本では、「歳出を削減しないと、増税は認めない」「増税に当たっては、歳出削減が前提である。」といった言説が当たり前に受け止められている。
 歳出の削減は、行政サービスの低下である。行政サービスの低下を、増税の条件にしているわけである。簡単に言えば「サービスを低下してくれたら、たくさん払う」という意思表示に見えてしまう。
 「歳出の削減と増税を同時に行う。」と宣言する方が妥当な気がする。

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2006年11月22日 (水)

韓国のプログラム予算導入

 韓国の公共部門では、成果主義の導入が進んでいる。試行錯誤ではあるが、この流れには政治の強い意志がある、とのことである。
 成果主義である以上は、インプットとアウトプットとの関係をはっきりさせることが重要である。そのためには、予算面では、細目予算(item-line budget)ではなくて、プログラム予算(programme budget)とすることが求められる。
 日本の予算制度(細目予算)では、各省庁に人件費、物件費、旅費ごとに予算を決定し、それを組織内で融通していく、というやり方をとっている。これだと、インプットがそもそもどれだけなのかわからない(わかりずらい)。また、予算の使い道が限定されているため、有効に活用していくことの障害になることもある。要するに成果を測ることが難しい。
 その点、プログラム予算だと、予め、プログラムごと、サブプログラムごとにインプットが決められ、そのなかで予算を弾力的に利用できるので、結果に対して合理的な行動を取りやすいし、成果についての責任の所在が明かにしやすい。

 要するに、成果主義に行き着く先には、プログラム予算があるとされている。日本で成果主義といっても、予算との関係の薄い成果主義ということになり、そのやり方に常に疑問が投げられかけている。

 韓国は、成果主義を徹底するという観点から、ついに2007年からプログラム予算を導入する。当初は混乱が予想されるけれど、一貫性のある政策といえるだろう。成果主義自体の問題はさておき、政策として中途半端でないところに気持ちよさを感じる。

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2006年11月21日 (火)

外務省の在外給与

 新聞報道によると、外務省の在外における給与(在勤基本手当等)がここ数年で3割程度削られており、外務省の審議会が増額するよう勧告しているとのことである。
 
 在勤基本手当等の額は、政令で決定される。政令は、閣議で定められるので、つまるところ行政府内で決定される。要するに、外務省が検討し財務省などの意見を踏まえて閣議に諮り、額が決定されている。国家公務員の給与の決定とは違い、国会が介在していない。「お手盛りではないか」という批判に正面から答えることが難しい決定プロセスといえるだろう。
 また、在外基本手当等の水準が適正かどうかは、算定根拠から判断する必要がある。算定根拠そのものが妥当か、また、算定根拠に照らして妥当な水準か、チェックした上で判断すべき問題である。報道や外務省HPで見る限り、しっかりした算定の根拠など判断材料が提供されていないので、判断のしようがない。
 情報公開が進んでいる現在では、たとえ妥当な施策を実施していたとしても、透明性を確保していないと、「後ろ暗いところがある」と怪しまれてしまう。在勤基本手当等を、国家公務員の給与と同様、国会が決定する必要は必ずしもないと思うが、少なくとも国民を納得させるための材料を提供するなどの努力が必要だろう。

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2006年11月 9日 (木)

成果主義と公務員

 成果主義が有無を言わさず公務員に導入される。正確には2006年1月から「試行」が行われる。公務員としては、成果主義を粛々と受け入れるしかない様相である。
 官僚が抵抗している、とマスコミは書いているけれど、これには違和感がある。
 少し考えればわかることだけれど、給与は、「原資」(人件費)があって、それを「配分」する、ということになる。給与の面からみると、成果主義は、「原資」の決定方法ではなくて、「配分」の方法の一つである。
 日本の公務員については、いろいろ批判があるし、今後変更の可能性があるけれど、民間準拠で給与を決めていく枠組みが確立している。つまり、原資は、その算出方法を含め、成果主義とは別のところで決定している。
 納税者にとって、給与に関する最大の関心事項は、公務員に割り当てられた原資の大きさである。本来、公務部内での給与の配分には興味がない筈である。しかし、現在では、「成果主義を導入すれば、公務員がより一層働く」という命題が正しいと信じられていて、それがために公務部内での配分問題が検討課題となっているわけである。
 納税者は、働かない公務員に対して怒っており、それが成果主義を主張する理由であるように思われる。とはいえ、多くの公務員は、納税者と同じような立場である。仕事をしない人がいることにより、仕事をしている人までも納税者から批判を受けるし、仕事をしない人たちの分まで仕事をさせられる。要するに、多くの公務員は、納税者と同様、あるいはそれ以上に、働かない公務員に対し怒りを感じている。
 つまり、仕事をしない奴の給与を下げる、ということは、多くの真面目な公務員にとって、有り難いことであると言えるが、ではなぜ、「官僚の抵抗」があるのだろうか。
 以下、官僚の意見を書くことは簡単なのだけれど、気が引けるので、行政学と経営学の立場から説明する。
 今般の有無をいわさぬ成果主義の導入は、行政学者にとっても、経営学者にとっても、その学問が積み重ねた知見を尊重していない、という不満があると思うが、ほとんどその声が聞こえてこないのが不思議である。
 行政学者の多くは、公務員人事について、おおむね次のようなイメージを持っている。
 給与、昇進については、採用後相当期間、差をつけない(横並び)けれど、同じランクであっても、優秀な者は重要なポストに、そうでないものは重要でないポストに配置するという対応を行われている。そうしていく間に、各職員の評価が自然に定着していき、誰が昇進していくべきなのか、そうでないのかが見えてくるし、その結果に不満を述べるものは少ない。一方、できるだけ長期間、昇進に明確な差をつけず、「逆転可能」と思わせることで、長期間の競争を行わせ、モチベーションを維持する、というメカニズムを採用している。
 要するに、長い期間をかけることで、評価の納得性を高め、処遇に差をつけないことで、いつでも逆転可能というフィクションをつくりだし長期間モチベーションを維持する、というのが基本的考えといえるだろう。
 私の大学の専攻があるとすれば、実は経営学である。さび付いている知識を敢えて引っ張りだすことになるけれど、経営学者は、給与に差をつけることで、モチベーションが上がる、とは決して主張しない。テイラー主義、フォーディズムの時代から、「給与に差をつけることで、モチベーションが上がる」という命題を、長い時間をかけて必死に証明しようとしたけれど、ことごとく失敗してきている。ただし、企業への参入・退出の決定に対する影響は大きいとされている。
 要するに、給与が高いところに就職しようとするし、給与が高いと退職しにくいということは観察されるが、給与は、仕事へのモチベーションにほとんど関係ない、ということである。逆に、早期に抜擢することが他の多くの従業員のモチベーションを下げることは、しばしば観察される。
 したがって、経営学者は、「成果主義を導入したらモチベーションが上がる」と主張できない。経営学説史を知らない、と一蹴されるからである。一方で、経営コンサルタントはお構いなしに、成果主義の導入を主張する。
 つまり、成果主義に関しては、経営学者と経営コンサルタントは、「切れている」と言っていい。経営コンサルタントは、経営学の都合のよいところを使いつつ、コアの部分を無視することで成果主義を唱道している。
 行政学者も、経営学者も、もしかすると、アカデミックな興味で、混乱を見たい、という気持ちもあるのかもしれない。
 性悪説に立てば、成果主義により行政が混乱した場合、行政学者は、「だから前から成果主義は駄目だ、って言っているだろ」と主張できる(その根拠となりうる書籍は多数存在する。)。
 経営学者は、行政という自分たちの守備範囲外で大きな実験をして、経営学の常識が、より揺ぎの無いものになることを期待しているのかもしれない。
 私は、行政学者でも経営学者でもないけれども、性悪説に立って、せいぜい楽しもう、という気分である。

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2006年10月26日 (木)

海、森、ハイジのおじいさん

 環境の専門家によると、地中海は、生物が棲むには厳しい環境とのことである。
 森林の伐採による森の消滅で、豊かな生態系が破壊されてしまっているそうだ。
 その結果、砂浜には貝殻はほとんどないし、海草に足をとられることもないし、クラゲに刺されることもない。人間にとっては、「海水浴をするのに、なんて快適なんだろう。」ってことになる。うーむ、いいのか?

 ルグィンのファンタジー「ゲド戦記」では、中世っぽい世界が展開していて、牧畜を行っている様子が出てくる。多分、牧畜のために木を伐採したり、家畜の糞尿による地下水の汚染とかが進んでしまうんだろうな、水田を作るのは無理だな、なんてことを想像した。
 こういう想像をしてしまうと、ファンタジーがファンタジーでなくなってしまうのが難点である。

 それはともかく、日本のように、森などの資源を保護しながら、人間の活動を行っていくことはできないのかな、なんてことを考えたりした。森という湛水力のある後背地がないと水田による稲作が難しいから、どうしても守らないといけない、っていう理由があるからかもしれないけれど、 環境保護に適合的な社会の組み立て方だと思う。

 またまた話は変わるけれど、スイスでは、国土の森林の90パーセントを17世紀までの大開墾時代に伐採した、と言われているけれど、なぜ現在、森が多いのだろう、と思ったら、「あれは18世紀以降の植林だ」とのことだった。
 「アルプスの少女ハイジ」にでてくる、大きな犬を連れていたおじいさんがどうやって生計を立てていたのか疑問が解けたような気がした(当時、ドイツの都市労働者くらいにしか年金はなかったはずだ)。彼は、植林をした森のメンテナンスを仕事にしていたのではないか。国策に沿った仕事なので、多分、国家公務員である。あ、スイスは連邦国家だから、地方公務員か。
 こういう想像をしてしまうと、アニメを素直に楽しめなくなるのが難点である。

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2006年10月15日 (日)

マイレージ

 公務員が出張でマイレージを貯め、私的な旅行に使うことへの批判がなされている。仕えた上司にも、公務員で出張してマイレージを貯めることはしない、と言っていた人もいた。
 なんて考えていたら、一部の府省は、出張で貯めたマイレージを私的に利用することを禁止した。「一部の府省」というところが興味深い。同じことをやっても、ある府省では懲戒を含めた処分の対象となりかねず、その府省の隣の府省では処分の対象にならないわけである。
 地方分権は進まないけれど、霞ヶ関内の府省では分権化されている、とよく言われる。マイレージの一様でない取り扱いは、その例かもしれない。

 マイレージに関しては、ほとんど意見はない。趣味の問題として、「私は使わない」とは考えているけれども。
 ただ、しばらく前、在外公館に勤務する知り合いの話を聞いて暗澹たる気持ちになったことがある。
 曰く「出張で同じ便で来てくれたら迎えが一回ですむのに、マイレージの都合で、別々の便を利用するのはやめてほしい」
 うーむ。

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2006年10月 6日 (金)

誰が国益を考える?

 マスコミや政治家は、官僚に対し、「省益にとらわれて国益を考えてない」と批判をする。
 当たっている場合もあるし、そうでない場合もある。ひとつ言えるのは、ステレオタイプな理解は問題が多い、ということだろう。

 例えば、米軍基地問題を例にとる。
 米軍基地問題というのは、日本の安全保障に関わる問題であり、まさに国益のために解決しなければならない問題である。
 では、基地問題は、誰が解決すべき問題だろうか?また、現実には、誰にその責任を負わせているのだろうか?

 常識的には、政治家が解決する問題だろう。しかし、現実には、防衛施設庁にその主たる責任を負わせているように思える。
 多分、防衛施設庁の職員は、「省益にとらわれて国益を考えない」という批判があった場合、苦々しく感じるだろう。政治家にもっと頑張って欲しい、と願っているに違いない。
 さらに言えば、マスコミに対しても、国益(それが嫌なら、公益)について一定の配慮をした報道をするように心がけて欲しいと思っているだろう。

 いずれにせよ、基地問題を、行政だけで、より具体的には防衛施設だけで解決するのは、相当の無理、困難がある。
 政治と行政の役割分担は、こういうところから見直していくのがいいと思うのだけれど・・・。

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2006年9月29日 (金)

目標を明確にすること

 国土交通省で、河川に関する仕事をしている技術系の職員を、一般に、河川技官と呼ぶ。
とても尊敬できる河川技官のOBに知り合いがいたり、河川技官の友人もそこそこいるし、そういえば、河川技官の男の子の仲人をしたこともあったり、何かと関係がある。
河川技官の人たちには、とても立派な人が多い。「立派な人」というのは、この場合、「専門性」と「人格・見識」が備わっている、ということである。彼らに会い、やっている仕事を実際に見ると、「日本にまだこんな立派な人たちがいたの?」と新鮮に驚く人は多いと思う。また、多くの組織では、偉くなる人=友達として付き合いたくない人、だけれど、河川局の場合、偉くなる人=友達として付き合いたい人、という等式がそれなりに成り立つ、稀有な組織だと思う。

 長良川河口堰の例にしても、100年先を考えた強い専門性とよくないところは直ぐに改めて対応していく柔軟性は、誰しも見習うべきだと思う。
ついでに言うと、長良川河口堰について、未だに噛み付いている人がいるけれど、環境団体が言っていたような環境破壊の証拠は示せていないし、長良川の水面を1メートルから2メートル下げることができ、洪水防御という地元の悲願に応えている。そもそも、河口堰を作り、洪水を防御し、自らの生命を守るという地元の悲願を、環境団体が潰していいのか、と思う。

 河川技官の人たちの「立派さ」というのは、どこから来るのだろうか、と思う。
 「治山治水を通じ、国民の生活基盤を支え、生命・財産の安全を守る。」というように、目標がはっきりしているからだと思う。「利水・水の安定供給」も重要だけれど、「洪水防御」という生命に関わることを担当しているとすると、背筋も伸びるだろう。100年先まで考えないといけないので、責任感も強く意識するだろう。
 また、上から下まで、同じ明確な目標を共有できる組織は強いだろう。しかもそれは、「公益の実現」という良心に訴えるものなのでなおさらである。みんな元気に働く。

 話はそれるけれど、一部の外資系投資銀行のように、「どんな汚いことをやってもいいから金を儲けろ」という明確な悪意に満ちた目標で元気を出す人たちもいる。ただし、わずかに残った自らの倫理観に復讐され、精神を病む人が多い。逆に、病まない人、辞めない人を想像すると気持ち悪い。どうやって精神の面倒をみるのだろう?何かに耽溺するか、思考停止するか、はたまた、鈍感さを発揮するか。

 話はさらにそれるけれど、本当に公益を思って仕事をしている人たちを、安易に厳しく批判して、国民との離反を生じさせるのは厳に慎むべきだと思う。国民と行政の両方にとって不幸である。

 一方、外務省は、各省庁からも、国民からも評判もいいとはいえない。一人ひとりをみると、見識のある人も多いのに、である。
 ずっと前、ある会合で、外務省の人をゲストに、各省庁の人たちや学者と議論をしていたとき、河川技官の人が手を挙げ、みんながしたいと考えていた質問をしてくれた。曰く、「外務省の目標は、結局何ですか?」
 それに対する答えは、「できるだけたくさんの国と仲良くすること」だった。本音だと思う。明確なヴィジョンが示されてないと、こういうことになるのではないか。
 しかし、こういう「ぼやけた」目標では、どんな優秀な人たちが働いていても、立派な仕事をするのは難しいだろう。本人の強い心がけがないと、能力の向上、見識を身に着けていくことにも、困難があるように思う。組織としてみても、「ぼやけた」目標では、みんな元気が出ない。思いつきに振り回されやすく、職員が疲弊してしまうようにも思う。
 外務省がかかえる問題の原因の一つが見えた気がした。

 明確な目標をもつことは、個人にも組織にも重要であり、ぶれない目標を作り上げる努力が必要だろう。当たり前だけれども、しっかり意識しておくべきことだと思われる。

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2006年9月28日 (木)

住宅金融公庫

 住宅金融公庫が機能を大幅に縮小する。私は特に意見はないけれど、住宅金融公庫に少し感慨がないでもない。
 住宅金融公庫というのは、戦後、経済成長が始まり都市に人口が流入していくなかで、劣悪な住環境を改善していうために設置されたわけである。国家の目標として、日本政府は、最重要な政策として「マイホーム政策」といわれるような政策をとっていたわけで、その政策を遂行していくためのツールである。

 公庫はいわゆる特殊法人であるけれど、それを時代に合った形に見直していくことは必要かと思われる。
 ただし、最重要な政策であったはずの「マイホーム政策」を続けるのか続けないのか、はっきりとした政治判断があってしかるべきである。
 しかし、実際には、とにかく特殊法人を見直すべき、という考え方から、「マイホーム政策」をどうするか議論が曖昧なまま、住宅金融公庫を、廃止を含め見直す、という提案がなされた。結局、「権限を守りたい官僚の抵抗で」廃止は逃れ、権限が大幅に縮小されことになっている。
 しつこいようだけれど、これは、議論の順序は間違っているように思う。まずは、何を(WHAT)するか、しないかを決めて、どうやって(HOW)やるのか決めるべきだろう。

 一般化すると、次のようになる。繰り返されてきているパターンといえるかもしれない。
 急に、「△△△公庫・公団」を廃止する、という話が持ち上がる。しかし、「△△△政策」をやめないのに、「△△△公庫・公団」を廃止されては、△△△政策を担当する行政官は困る、非常に困る。何もできなくなってしまうからである。だから、まず、△△△政策をやめるかどうかの判断をして欲しい、と主張する。これを「官僚の抵抗」とレッテルを貼られる。
 結局、△△△公庫・公団を廃止するんだったら、△△△政策をやめますね、って行政官は言わざるを得なくなる。△△△政策をやめたら、まずいことになる、ってことを知りつつ、である。
 そうして、しばらくすると、△△△政策に関係する社会問題が生じる。それに対して、マスコミ・国民は、△△△政策の担当者は何をやっているんだ、と批判する。しかし、担当者には、△△△政策をやるツールを与えられておらず何もできないので、困る、非常に困る。結局、黙って批判に耐えるしかない。しかも、対応する部局を作ろうとすると、「焼け太り」という批判がまた寄せられる。ああ・・・。

 詳しくは書かないけれど、社会保険庁の徴収率の問題だって、ほぼこの構図に当てはまる。
 こんなことでいいのかな、と心配である。

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郵政民営化

 郵政事業が民営化された。私は特に意見はないけれど、郵便貯金に少し感慨がないでもない。
 郵便貯金というのは、19世紀にイギリスで、金融資本による政権支配を排除するために、小口の資金を集めて国債に充てるために開始したものである、なんていわれても誰も知らないと思う。日本の郵便貯金も上限があるのは、この伝統に沿ったものだった。

 例えば国債を買うか買わないかで、金融資本に脅かされ、金融資本の気に入るような政策を実行したら、民主主義を損なう、ってことは簡単にわかる。大統領はマーケットが決める、なんていわれるようなどこかの国のような状態を私は避けるべきだと思う。

 市場の論理は、効率であり、格差を作り出す。民主主義の論理は、公正である。これらは両方重要だけれど、市場の論理に偏ったらギスギスした社会になる。格差の大きな社会になる。
 郵便貯金の民営化は、日本が、アメリカやイギリスのように、金融資本の顔色ばかり伺う政府を作ってしまう方向への舵を切った象徴的できごと、という気がしなくもない。
 要するに、郵便貯金は「POWER TO THE PEOPLE」のための施策であり、民主主義を守るための一つのツールだったのに、日本では、まさに、PEOPLEが、それを否定してしまった。郵政事業の状況が、PEOPLEが怒るようなものだったといえるとは思うけれども。
 石原都知事が郵便貯金の民営化を評して、「郵便貯金があれば、国がいざというときに何百兆もの金を動員できるのに残念」という趣旨の話をしていたけれど、これはこれで見識かもしれない。

・・・・・・・
 かつて、政策関係の勉強会を切り回していたことがあり、政策シンクタンクに関わる人たちに知り合いがたくさんいる。彼らの多くは、市場主義の徹底を主張する人が多い。民主主義が機能しないから市場主義が徹底しない、くらいに考えている。
 こういう態度は、一見、正しそうに見えるけれど、民主主義と市場主義は対抗する原理であることを忘れている。
 もっといえば、民主主義の活性化といいつつ、市場主義を主張する人が多くを占めれば、大企業や金融資本の政策への影響力が強まり、実質的に民主主義を壊しかねない、というくらいの想像力は持ったほうがいい。
 いずれにせよ、経済(お金)という価値基準を重視し、市井に生きるひとりひとりへの視線をもたないことが、民主主義の公正の論理への鈍感さを生んでいると思われる。このことに私は気持ち悪さを感じている。

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2006年9月24日 (日)

緊急事態の情報収集

 ある大学の先生は、緊急事態が発生したときの情報を収集する部局を調べたそうで、それには大変興味深いものがあった。
 PKOを展開するのに、中央省庁の約50の部局が関係するそうである。大規模地震で約90だそうである。
 要するに、大規模地震が起きたら、中央省庁の約90の部局がてんやわんやの大騒ぎになるだけでなく、90に分かれて情報が集約され、それが下手をすると五月雨式に官邸に報告されてしまう。
 そうすると、官邸がまともに判断することが困難を極めることになるだろう。
 背中が寒くなる話である。

 政策には、政治家にできることとできないことがあり、官僚にできることとできないことがある。こういう情報収集体制の見直しは、政治家にできて、官僚にできないことのよい例かと思われるがどうだろう。

・・・・・・
 と、書きながら、政治家にも官僚にもできない政策がたくさんあることに気がつく。うーむ、心配である。

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2006年6月14日 (水)

公共事業の緊張感

 かつて日本の海岸は、湿地帯が広がっていた。東海道五十三次だって、一部は海の道である。毎年の洪水のたびに地図が変わってしまうため、海辺に安定的に人が通ることのできる道を作ることができなかったわけである。
 明治維新後、長い時間をかけて、海を埋め立てるか、トンネルを掘るかして、なんとか東海道をつなげていった。
 なお、ずっと時代は下るけれど、東名高速道路が開通したときは、新聞は「誰も通らないレジャー道路だ!」と批判していた。行政の立場は常に悪い。
 子どもの頃、「トンネル物語」という本があって、それをむさぼるように読んだ記憶がある。トンネル掘りが機械化しておらず、命がけでトンネルを掘っていた。そういえば、中学生の頃「恩讐の彼方に」という本に感動をした記憶があるが、これもトンネル掘りの話である。
 公共部門にお世話になっている者として、私は、こういう重たい歴史に素直に敬意を表している。
 もっといえば、こういう現場の命がけの苦労があったから、かつて「無駄な公共事業」なんてものは存在しなかったのではないかと思う。
 「無駄な公共事業」というものがそんなにあるように思えないけれども、公共事業を含む政策に対する緊張感が緩んでいるのではないかとは思う。
 もっといえば、「命がけ」だった時代には、「PDCAサイクル」なんて管理手法が必要とされななかったのかもしれない。

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2006年5月29日 (月)

ひとりひとり

 世の中は金融資本主義である。ほどほどにして欲しいと思うけれど、やむをえまい。
 金融は、大きくなればなるほど、「ひとりひとり」を大切にしない。どこかにしわ寄せが行っていること、それにより苦しむ人がいることに思いを致さない。
 そんなことを考えていたら、金融業界で働くことは大変辛くなる。
 1997年のタイを発信源とした金融危機は、金融機関のお行儀わるさが原因、とは言い切れるかどうかわからないけれど、「ひとりひとり」を大切にしようという「人間の安全保障」の考え方を促進していく理由ともなった。金融機関などに勤務する友人には、タイなどの状況をみて、自分のやっていたことに対し呵責に近い感情をもってしまい、辞めていった者も多い(こういう記憶が既に忘れ去られたのはとても残念である。)。いずれにせよ、金融危機のために、国際協力ワーカーたちの膨大な努力の集積が必要になったことを考えると、悲しくなる。
 公共部門の場合、マクロ政策を始めとする大きな政策でも、限界はあるものの「ひとりひとり」を大切にする十分な理由がある。
 「ひとりひとり」を大切にしないと政治的にもたないし、ミクロの政策を担当する省庁からとの話し合う機会が確保されているからである。
 一方で民間の金融部門、特にヘッジファンドとか投資銀行などには、そういう理由が欠けている。こういう場合、構成員に、倫理的問題に向き合うことを求めても無理である。特に大きなお金を動かす場合、倫理的問題に向き合っている人とそうでない人は、後者の方が「効率的人間」である。こういうところに、「幼児的資本主義」といわれる理由があろう。
 この点は、公共部門と決定的に違う。
 私は、「ひとりひとり」を大切にしたくて、できる範囲で、いろいろ取り組みたいを考えているし、そうしている。
 「ひとりひとり」を大切にすると、手間がかかり、大きな仕事はできないけれども、そうあるべきと考えている。
 友人に金融部門での仕事に違和感を感じて、国際協力の世界に身を投じている人が相当数いる。そういう人たちが感じていた違和感を思い切って無理やり言葉にすると、上のようになると思う。
 いずれにせよ、違和感を大切にして、迷いながら歩む人に私は共感を覚える。私自身も迷うことが好きだし、迷っている人が好きだ。

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2006年5月28日 (日)

「席」が仕事をする

 民間企業に勤めている人と話をしていると、公務員の美風について考えるときがある。
 公務員、とくにいわゆるキャリアだと、民間企業のとっても偉い人に若いうちから会う。多額のお金とか多くの人を動員することもある。しかし、それを誇らないところが美風だと思う。
 つまり、「席」(ポスト)が仕事をしているわけであって、そこに就いている「自分」が偉いのでもなんでもない、と考える思考・風土である。
 公共の世界で、「席」が仕事をしている、という考えを持たない人たちは、どこかで問題を起こすような気がする。また、政策をおもちゃにしているような人たちがいるとすれば、はなはだ迷惑である。政策は、見識のある人たちに任せたい。
 民間企業の人たちと話をしていると、「席」が仕事をしているという考え方が希薄のように思う。
 それどころか、「席」に「自分」を同化している場合も目に付く。
 「席」に「自分」を同化することは、いくつか問題があると思う。
 一つは、単純に、「自分を偉いと勘違いする」というものである。
 もう一つは、説明が難しいけれど、「席」という物質的なものに、「自分」を同化するというのは、「自分」を傷つけていないか、ということが気になっている。
 いずれにせよ、一部の哲学者たちが、日本の資本主義を、「幼児的」という批判をしていたりするが、その気持ちはよく分かる。
 公務員にせよ、民間企業職員にせよ、それなりの「席」についている人には、よい意味でのエリート意識と見識を備えて欲しいと思う。

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2006年5月24日 (水)

おとなしい若者

 各府省の新人研修をみるかぎり、新人が年々おとなしくなっているようである。
 公務員批判が強く、萎縮しているような面もあるかもしれないが、大人たちが口うるさくなったことが原因ではないかと疑っている。
 就職活動などは、かつてはもっとおおらかだったように思う。エントリーシートなんて聞いたことはなかったし、履歴書を提出した記憶もない。
 「法学部テニス学科麻雀専攻」なんてノリで十分通用していた。型にはまったことを言うことを、なんとなく嫌ったような雰囲気もあったように思う。
 以前に比べて、早く成熟することを求められているように思う。
 いいのか悪いのか分からない。ただ、私はあまりいいことのように思えない。「迷うのが好き」という直観的な理由くらいしか示すことができないけれども。

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2006年5月21日 (日)

公共部門と勤勉性

 公共部門で働く人たちは、「勤勉でない」なんて批判を受けることがよくある。
 多くの場合妥当するといわざるを得ない。
 民間部門の方が、平均したら、勤勉なんだろうと思う。
 しかしながら、企業の買収、M&Aなんかをみていると、勤勉に仕事をしていても、外的な力で、積み重ねがほとんど意味を失ってしまう場面に遭遇することが(よく)ある。
 君主論なんぞを読んでいると、企業の状況と二重写しになる。君主論は解釈の仕様はいくらでもあるが、「勤勉は意味をもたない」という教訓を引き出すこともあろうかと思う。
 企業への忠誠とか、それに基づき勤勉に働くことは、資本の論理からすると、簡単に裏切られてしまうことである。これは、ある種の人間の悲惨の表現のようにさえ思えてくる。
 つまり、民間部門で特定の組織に忠誠をもち、勤勉に働くことは、そのうちに、悲惨があるように思える。一方、公共部門で働く人たちが、勤勉であることによる悲惨の可能性は民間部門に比べて高くない。
 民間部門はそこそこに働いていただいて、公共部門には頑張ってもらうくらいがちょうどいいように思えてしまうがどうだろう(霞ヶ関は働きすぎだけれども。)。

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2006年5月19日 (金)

ポストと人

 日本の行政組織だと、社会のすみずみまで、行政サービスを行渡らせることが必要であり、適切にポストを配分して、抜けのないように対応していくことになる。その際、ポストにどんな人がついても、組織としてのミッションを果たすことができることになっている(フィクションだけど)。
 その上で、ポストが担う職務の困難性、重要度などを勘案して、給与が決められることになっている。
 これは、行政組織のあり方として、合理的だと思う。
 一方で、国際協力の場合、社会のすみずみまで行政サービスを行渡らせることよりも、「よりより社会をつくる」プロデューサのような仕事をしている場合も多い。
 そいうい仕事は、予めポストがあって、そこに応募して、給与をもらいながら、という行政組織のようはやり方が適用しにくい場合もあろう。
 国際協力の仕事をしている人をみていると、「この人にお金を付けるべきではないか」と思う場合がよくある。その人に、まかせれば、とってもいい仕事をしてくれる、と考えているわけである。
 つまり、ポストにお金をつけるのではなくて、人にお金をつけることができないか。そういう部分を増やせないか、と思う。 主にNGOを想定しているのだけれど、インターネットの世の中であり、個別の資金集めは容易になっているので、不可能ではないかもしれない、なんて考えたりする。
 ポストや金に人が振り回されるのを、「疎外だ!」なんて叫ばないけれど、なんとかそういう不幸を減らすすべはないものだろうか。

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2006年4月 9日 (日)

民主主義の帰結

 多くの場合、民主主義は、少数者の切捨てという意思決定を行う危険に晒されている。これは、「功利主義」的な考え方にも補強される。
 日本の場合は、民主主義が、少数者の切り捨ての方向に作用しにくい。各方面の「納得」を得ることに力を注ぐので、少数者の利益の保護がなされやすい。「功利主義」的な考え方から遠いように思える。
 かといって、原理原則を徹底するという考え方があるわけでないので、カント的・義務論的な意思決定とは言えないようである。
 結果的に、日本では、ロールズの「正義論」に近いような考え方に基づいて、民主主義が運営されているように思えるがどうだろう。

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2006年4月 8日 (土)

規制緩和の進め方

 規制緩和は、まだまだ大きな検討課題である。
 現在、「どのような規制を緩和するか」という形で検討がなされている。
 当たり前だ、と言われそうだけれど、以前はそうではなかった。
 宮澤首相の時代までは、「各省庁一律で○○%、規制項目を削減する」というような号令のかけ方をしていた。 各省庁は、横並びだったら仕方がない、と考えたのか、内部でよく検討し、必要なくなった規制を廃止するなどして対応する、という形で進めていた。
 そこに登場した細川首相は、「この省庁のこの規制がいけない」という仕方でことを進めようとした。しかし、各省庁の反発で進まなくなる、という力学が働き、規制緩和が進みにくくなった。細川内閣は短命に終わったので、十分な評価はできないけれども。
 今や、細川首相のようなやり方が当たり前になってきている。政治主導、ということでもあり、良いことなんだろう。

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2006年3月29日 (水)

PSE法

 電気用品安全法(PSE法)による混乱には、いろいろ考えさせられた。
 中古家電のテストする機械がないといったことが後になって露見する、というのは、初歩的なミスに見える。
 また、混乱も予期できたように思えるのだけれど、導入を急ごうとしていた理由が見えてこない。
 さらに、大きな反発の広がりをみるにつけ、関係者からの意見を十分に吸い上げたようには思えない。
 経済産業省の場合、業界団体と相談して施策を打ち出していくのが一般的といえる。
 PSE法に関しては、経産省とじっくり相談できる業界団体がなかったらしい。
 そう考えると、経済産業省の意思決定の性格から発生してしまった事案のように思える。
 話は飛ぶけれど、業界団体のはじまりは、戦時中の統制経済の時に重要産業ごとに設立された「統制会」がと言う人もいる。なお、統制会は、その長に官僚が就いた例が多く、いわゆる「1940年体制」の象徴的な存在である。
 PSE法の事案は、裏を返せば、戦中・戦後ずっと続いてきた、業界団体との対話で政策を決定していく、という、「統制会的な手法」の限界を示した例と言えるかもしれない。

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2006年3月27日 (月)

韓国(アポイント?)

 恥ずかしながら、初めて韓国に行った。
 全く便宜供与を受けずに、サバイバルな出張だった。一方的にアポイントのメールを出し、返事が来ないのに、アポイントが取れたことにして出かけた(結局取れていたのだけれど)。
 関係者はみんな心配していたけれど、行ったらなんとかなる、という感覚を国連で身につけてしまった。サバイバルな感覚も多分、国連で身につけたのだと思う。
 日本の組織の厳密さ、丁寧さを、相手の国もうそうだろう、と想定して仕事を進めるのはよくないと思っている。韓国の組織が大雑把だとは言わないけれど、「アポイントが取れていない」ということの意味するところはだいぶ違うと推測している。

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2006年3月24日 (金)

韓国(留学制度)

 日本の国家公務員には、留学制度があり、毎年130人くらいが、原則として海外の大学院に留学している。
 一方、お隣の韓国では、300人程度とのことである。
 うーむ、負けている。韓国の人口は日本の人口の4割程度なので、政府職員の比率からして、10分の1くらい、ということになる。
 韓国の国家公務員の「特権階級さ加減」(?)は、日本よりずっと高いと思われるけれど、それにしても、彼我の差は大きい。世界が小さくなるなかで、大丈夫かしら、と心配になる。
 ただし、日本の国家公務員が留学してすぐに辞職することが問題になっている。そういった中、留学を増やせ、とは言いにくい。
 なんらかの対策を考える必要があるのではないかと思われる。

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2006年3月21日 (火)

韓国(再会?)

 1990年だから、もう16年近く前、ある韓国の公務員の方が日本に研修に来ていた。
 私は、その人の訪問先のアレンジのお手伝いをしていた。日本語の上手なとてもいい方だった。当時は、課長補佐クラスだった。彼から、簡単な韓国語会話を習ったりもした。
 今回の韓国出張で、韓国政府の中心的な研修施設を訪れたら、たまたまその彼がいて、16年ぶりの再会を喜んだ(ものすごい偶然である。)。
 彼は、今や中央省庁の局長クラスである。日本では考えられないことに、彼は、局長クラスにも関わらず、1年近くの研修を受けている。
 日本ではそのような定員・定数上の余裕はない。局長クラスであっても、しっかり勉強しなおして、行政運営に当たる、という考え方は、とても「まとも」という気がする。
 アメリカ軍の「将」クラスには、「待命」と言っていいような人材のプールがあり、いざ、作戦行動があったら、その作戦行動に最も適当な資質・能力を持っている、と思われる者を司令官に指名する、といったことを行うといわれている。適材適所とはこういうことを指すのだと思う。
 成果主義なり能力主義なりで選抜をしていくのはいいけれど、韓国やアメリカのように、人員に余裕を持たせ、いざというときに能力を発揮できるようにしておく(適材適所ができるようにしておく)、といった仕組みも併せて導入できないものか。
 日本では、ギリギリの定員・定数で、かつ、適材適所を進めるべき、という主張が力を持っているけれど、人員(定員・定数)に余裕がないと、適材適所を実現するのはほとんど不可能だと思われる。

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2006年3月19日 (日)

レンジャー

 過去、3ヶ月の間に、自衛隊の訓練のビデオをいくつか見た。
 レンジャー訓練のビデオは面白いものがあった。
 命令に対して、「レンジャー!」と叫ぶのをみて、隣にいた陸上自衛官に、「命令されたり、訓示を受けたら、本当に『レンジャー』っていうの?」と聞いたら、「本当です。危険が迫っているときに、議論して決めることは、危険を増大させるだけです。したがって、『いいえ』に相当する言葉がレンジャー訓練中にはありません。」ということだった。そりゃそうだ。
 軍隊組織は、人事上は、キャリアシステムを採用している。若いうちに採用して中途採用が基本的にない。日本の自衛隊に関して言うと、昇進の選抜はしっかり行っている。能力のない人が指揮官につくと、絶対服従の組織では大変なことになる、という認識が痛切に共有されているのだろう。
 自衛隊に比べると、霞ヶ関の昇進の選抜は、とても甘い。これは、評価の基準が軍隊組織と比較して多様であることが原因の一つかと思われるけれど、もう一工夫欲しいところである。

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2006年3月10日 (金)

医系技官のパンフレット

 「厚生労働省医系技官」という募集パンフレットがある。
 厚生労働省医系技官というのは、医学部を卒業してから、一般の国家公務員試験によらず、厚生労働省が独自に実施する試験により採用される、キャリア相当の職員である。
 「パンフレット」からいろいろなことが読み取れる。
 第一に、医系技官の採用は、人事課が担当せず、厚生科学課というところが担当している。人事の一元化を図っていないと推測できる。
 第二に、医学会の重鎮からの一言が掲載されている。業界との関係の強さを示している(誇っている?)ようにみえる。
 第三に、厚生労働省内の医系技官の占める幹部ポストを明示している。2つの局長ポストがある。既得権だとすれば、なかなか大きい。
 第四に、応募の際して推薦状(1通)を求めている。合否に関係はないと思うけれど、誤解を招くのではないかと心配である。
 総合的に勘案すると、医系技官は、他の公務員とは異なった世界を作っている、と言えそうである。

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2006年3月 9日 (木)

ねじれ

 所得が比較的低い層でも「小さな政府」にしていく政策を支持している、という話を聞く。小さな政府では、社会保障の機能は当然小さく、低所得者にとっては、厳しい社会となるだろう。低所得者が小さな政府を望むことは、どこかに「ねじれ」があるように思う。
 アルバイトをしている。給料が安い。安い給料のなかから税や国民年金保険料などを徴収される。公務員のスキャンダルを考え合わせると、国に搾取されている気分である。こういう搾取をやめるためには、小さな政府を目指して公務員を減らし、支出の減を図るべきだ。
 だいたいこういう思考の手順が成立し、「小さな政府」支持につながっているのではないかと推測する。
 根本的な問題は、アルバイトの給料が安いことであろう。アルバイトやパートなしではもたないビジネスモデルが一般化している。昔風にいえば、資本家が労働者を搾取しているわけである。一方で税や国民年金保険料は再配分であって、一方的な搾取ではない。また、「小さな政府」は、資本家による労働者の搾取を促進するか、という問いがあるとすれば、促進する方向に働きやすい、といえるだろう。
 つまり、低所得者は、自らの立場を困難にしていく方向の政策を支持している、といえるだろう。少しずつ、「低所得者が小さな政府を望む」ということの「ねじれ」に多くの人が気づき始めているような気がしている。

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2006年3月 2日 (木)

病院の評価?

 お世話になっているある大学の先生は、「病院の(業績)評価」を専門の一つにしている。
 講演などで、いろいろなところから声がかかり、忙しそうである。
 「他にやる人がいないんですよねー」と言うものだから、「私も参入しようかな」などと言ったら、「やめてください。『創業者利益』を十分に得てからにしてください。はっはっは。」とのことだった。
 社会福祉に関わる業績評価については、予算も小さく、研究がしにくいのだけれど、病院は、社会福祉施設とは比べ物にないくらい予算があるので、研究もやりやすいそうだ。
 こういう話を聞いていると、まだまだ日本には、社会科学系の学者・研究者が少ない、と思う。各研究分野には、それぞれ「ミッシング・ピース」があり、政策等に関わる知識の積み重ねが十分でない。
 一方、アメリカの大学の先生の数は、日本とは比べものにならないくらい多い。シンクタンクの研究員の数も同様である。そのため、鵜の目鷹の目で研究分野の「ミッシング・ピース」を埋めようとしており、政策に関する知識の積み重ねられている。
 大学研究の効率化も必要だろうけれど、それと並行して、もっと学者・研究者を増やせないものかと思う。

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2006年2月22日 (水)

行政の能力低下

 現在、霞ヶ関には、予算、人員などのリソースが絶対的に不足している(かなり厳しい減少に直面している。)。このため、新しい発想で行政施策を展開したいと考えても、その実施は大変難しい状況になっている。
 「斬新な発想に基づいた施策を行政に期待しない」と国民が合意しているのであれば、やむを得ないけれど、このままの状態であれば、しばらくしたら、行政がこれまで期待されていた役割を果たせなくなってしまうと思われる。
 これは、企業が赤字に陥って研究開発費を減らし、そのために、将来の成長の機会や長期的にみた競争力が失われてしまうことに似ている。
 こういったことに少しでいいから危機感を持った方が自然だと思われる。

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2006年2月18日 (土)

ラオスの公務員制度改革

 行政の分野では、世界的に、NPM(ニュー・パブリック・マネジメント)が流行っている。要するに、政府を企業として捉える考え方といえるだろう。
 ASEAN公務会議でラオス政府が作成・発表した文書を読んでいると、NPMによって「行政の価値」が失われてしまう懸念が表明されていた。例えばカンボジアが、ガバナンスの分野において、世銀との協力を謳っているのと対照的である。
 世銀の主張がラオスの伝統的な価値観と相容れないことによる反発かもしれないけれども、ラオスは自分の頭で考えている、という印象をもった。明治期の日本がそうであったように、外国等の知恵を消化して受け入れようという態度がある、といえるかもしれない。

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2006年2月14日 (火)

閉塞感2

 霞ヶ関の若手のいわゆるキャリアが、実名で、行政の改革に関わる提言を出版した。 霞ヶ関の「閉塞感」が動機らしい。
 ただ、この本は、霞ヶ関内では評判があまりよくないようである。いろいろ理由はあろう。
 私は、政策の担当者が、省庁の枠を超えて、議論をしていくことの意義は大きいと思うが、この本をざっと読んでみたら、これまでの改革案の再整理をしている部分が多かったような気がする。
 なお、昨今の改革のアイデア・考え方は、1962年の臨時行政調査会の答申の中に相当程度が含まれている。「失われた10年」を克服するために改革のアイデアが出てきた、というよりは、40年も前からアイデアは提示されていたわけである。
 さて、閉塞感を動機として、霞ヶ関で働く人たちが何かを書こうとすると、改革提言を行うことになるのは自然なことのように思える。
 しかしながら、現在、より必要とされるのは、過去40年以上繰り返されてきた改革提言の競い合いではなくて、これまで改革が進まなかった原因・理由を実証的に示したり、改革が必要だと考られる問題を具体的かつ詳細に示していくことかと思われる。

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2006年2月13日 (月)

途上国の公務員制度

 JICAが受け入れた途上国8か国の公務員の人事制度を専門とする公務員に対して、公務員の人材育成などなどについて話をした。久しぶりに英語を使ったので、疲れた。
 アルメニアの研修員を除いて、暖かい/暑い国からの訪問者である。寒いので土日もほとんど外出しない、という話を聞いて、やむを得ないとは思うけれど、少々残念に思った。折角滞在しているのであれば、存分に日本を楽しんでもらいたいと思う。
 それはさておき、ベトナム、インドネシア、フィリピンからの研修員の質問には、スラスラ答えることができるのだけれど、アフリカ諸国からの研修員の質問には、なかなか上手な受け答えができない。
 それぞれの国の公務員制度に関する知識の有無がその理由である。つまり、質問は、それぞれの国の実情を踏まえたものであるから、例えばベトナムのことがある程度解っていれば、ポイントを外さずに受け答えができる。
 このセッションにおいて、それなりの情報提供はできたのかもしれないけれど、話題が拡散しすぎて若干のもどかしさが残った。
 一度、ベトナムならベトナムの公務員に絞って、徹底的に議論してみたいような気がしている。

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2006年2月12日 (日)

政策情報

 ルービン回顧録には、次のようなくだりがある。
 「1998年10月にブラジルの蔵相ペドロ・マランから、ロシアの国会下院が増税を否決したあおりを受けて、ブラジルの為替レートが変動し金利が上昇したという過程を国民に説明するのは難しい、とこぼされた記憶がある。」
 行政官が必死に説明しても、理解不能なことは山のようにある。「説明努力が足りない」という次元を超えているものも多い。
 一方、国民に対して、「すべてわかるようになれ」というのも無理である。
 「情報公開をすれば行政をより深く理解できる」というのは、ある程度妥当するが、行政が情報を公開しても、「大多数が理解不能なこと」は、やはり「大多数が理解不能なこと」のままである。
 「大多数が理解不能なこと」を目の前にして、「理解できない」と開き直って行政批判をするのは、論外だけれど、「理解不能なこと」について、イメージにより評価を下すことは危険である。
 つまるところ、必要なのは、「理解不能なこと」に対する謙虚さや冷静さなのだろうと思う。

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2006年2月 8日 (水)

ASEAN公務会議

 ASEAN公務会議という、ASEANの人事行政機関の会議がある。その会議に提出される各国の公務員管理の状況に関するレポートを読んでみた。
 時々、JICAのスキームで訪日するASEANを含む途上国の人たちに公務員制度に関する講義をすることがあり、その際、背景事情のわからない質問に悩むことも多いので、実情を知っておきたい、と思ったからである。
 レポートは、ASEANの仲間同士の気楽さからか、本音が垣間見ることができ、興味深かった。
 例えば、カンボジアでは、公務員の実数が把握できていないことが問題で、働いている人の人数や経歴などの調査を実施している、ということである。それに併せて、「長期不在者」も特定することにしている。公務員の「長期不在者」が大きな問題になっているらしい。仕事をしていないのに給与をもらっている人たちがいる、ということを想像した。これでは、ほとんど人事管理の体をなしていないのではなかろうか。
 こうした中でも、政府は地方分権を進めているとのことである。このタイミングで地方分権を進めると、各地方がてんでバラバラの施策を展開し、かえって混乱するのではないか、と心配である。
 一方、開発関係者の間では、「ベトナムは発展する」とよく言われているけれど、このレポートを読んでいてもそう思った。
 ベトナムでは、各省庁が権限争いをしているらしい、というのもその一つの理由である。権限争いがある、というのは、きっと仕事をする元気が一杯なんだろう。そういう国は、多分、発展するのではないかと推測する。
 ASEANの人事行政機関が集まって、「意味があるのかな」というのが第一印象だった。国連の会議を想像したからかもしれない。先進国から最貧国までが揃った場所で、それぞれの国の人事行政が抱える問題を話し合っても、あまり意味がない。
 しかし、ASEANについていうと、ある程度文化的な共通性があり、開発段階も似通っている国同士が、お互いの経験を持ち寄って政策に生かしていく、というのは、意義あることに思われた。

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2006年2月 7日 (火)

シニシズム

 朝日新聞のオピニオン雑誌「論座」3月号で、「論座」編集長対「正論」編集長の対話(論争?)が掲載されていた。
 オピニオン雑誌界の左と右の横綱同士の対話、である。
 こういうことはどんどんやるべきだと思う。できれば徹底的にやって欲しい。徹底的にやらないと、それぞれの考える前提とか根拠がわかりにくいままである。そして、それをしっかり文字にして残して欲しい。
 私はテレビの報道番組をみない。
 立派なコメンテータもいるけれど、大多数のコメンテータのシニカルな発言が嫌だ、というのが理由である。政治におけるシニシズムが民主主義を殺す、と考えているからである。
 NYに住んでいたときには、よく報道番組をみていたけれど、コメンテータがシニカルな発言をする場面にほとんど出会わなかった。好感がもてた。やはり質問に対して、正面から堂々と答える態度が必要だと思う。
 コメンテータの発言内容を文字にしてインターネットに公開する、というようなことはできないものだろうか。言いっぱなしにさせないのは、シニカルな発言、ときに無責任な発言への対抗措置になりうるだろう。そうすれば、コメンテータの質が上がるかもしれない。

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2006年2月 6日 (月)

閉塞感?

 ライブドアの関係した事件は、ライブドアの幹部、煽ったマスコミ、利用した政治家というように、犯人探しに忙しい。「誰も彼らを批判できない」とさえ言う人も出てくるありさまである。
 逮捕後の成り行きにあまり興味はないのだけれど、私はもともとライブドアの行動に強い違和感があった。それがもとで、複数の知り合いと何度か言い争いになったりもした(やれやれ。)。ライブドア元社長の拝金主義は、基本的には程度の問題だか気にならない。経済界のお歴々をみていてそう思う。
 しかし、ライブドア元社長の「法律スレスレ」(実は「バレたら真っ黒」)の行動を支持する人たちを理解できなかった。彼らがライブドアの元社長を支持する理由を知りたかった。
 時代を覆う「閉塞感」がヒーローを待望したというようなことが、逮捕される前にも言われていた。ライブドアの元社長を支持する主な理由は、これなんだろうと思う。
 しかし、常識的には、閉塞感があるからといって、「法律スレスレ」の行動に対して、積極的支持を与えることにならない、と思う。
 閉塞感が常識的な判断を誤らせるところまで来ているのだろうか、と思うと少々怖い。

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2006年2月 5日 (日)

コミュニティと行政サービス

 1890年頃、村が71,314あった。
 かつては、平均して1000人くらいの規模の村に分かれ、コミュニティが助け合って生活していたのではないかと思う。
 民俗学者の宮本常一の「家郷の訓」「忘れられた日本人」などを読んでいると、そういった村について、「社会(共同体)がよく組織されている」もしくは「人と人とのつながりがしっかりしている」という感想を抱く。強力な宗教がないことを考え合わせると、不思議な気さえする(これは、「日本が発展した不思議」にも関係していると思う。)。
 2006年3月には、市町村が1,821になる。
 コミュニティや家族が助け合う機能を縮小し、それを行政・財政が代行するようになると、市町村も「規模の利益」を追求せざるを得ない。そうして行政サービスを効率化しサービスが充実すると、さらにコミュニティや家族の助け合いが弱まり、さらなる財政負担が必要になっていく、というふうに展開していくかもしれない。
 行政サービスについては、「効率化」が主たる関心事になっているけれど、「サービスの範囲」についてもよく検討する必要があるのではないかと思う。

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2006年2月 3日 (金)

公営住宅

 都心の一等地に公務員住宅があることが批判にさらされている。特に、付近の相場に比べて家賃が格安であることが、問題視されている。
 公務員住宅の必要性については、いろいろ議論があると思うけれど、都心の高度な土地利用を阻害している、ということであれば、売却もやむを得ないと思われる。
 一方、低所得者向けの公営住宅についても公務員住宅と同様の批判があってもおかしくないのではないか、と思う。低所得者向けの公営住宅の必要性は十分に理解できるけれども、都心の一等地に置く必要については、検討されてもいいと思う。
 要するに、低所得者で幸運な人は都心に格安の家賃で住むことができるけれど、低所得者でも高所得者でもない中間層は、郊外から長距離通勤を余儀なくされる、という図式が成立している。
 都心の公務員住宅の売却を進める方針が出たが、それが一段落したら、今度は、都心の公営住宅が批判の的になるかもしれない。

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2006年1月28日 (土)

官庁の裁判

 官庁はよく訴えられるので被告になる。
 どうみても勝ち目のない訴訟を挑む人もいる。一審敗訴を「不当判決だ」とマスコミで主張しつつ、控訴をしない、という場合は、本当に「不当判決」と考えているのか、よくわからなくなる。
 それはさておき、先日知り合ったアメリカ連邦政府の職員は弁護士資格を持っていた。聞いてみると、弁護士資格をもつ職員は相当数いるようである。
 ついでにいうと、アメリカの製薬会社のファイザーに勤務する医師は、日本のすべての製薬会社に勤務する医師の数よりも遙かに多い、と、医療経済を研究している人から聞いた。
 日本の組織内には、専門家が少ない、ということだけれど、官庁が被告になる裁判では、法律を習ったことのないような担当官が裁判の準備をしたりしている。仕事を通じて、裁判のやり方も覚えてしまう。当然、担当官にかかる負担は大きい。
 「このままでいいのかなー」というのが率直な感想である。官庁が被告になったときには、弁護士資格をもった人たちに業務を委託することはできないものだろうか。

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2006年1月27日 (金)

談合問題

 公共事業の入札を念頭においたとして、「業界の育成」と「公正な競争」は、両立するとは限らない。独占の問題、外資と民族資本の問題などを念頭におけばわかりやすいと思われる。
 また、「長期的効率性」と「短期的効率性」が両立するとは限らない。研究開発ができないくらい安い価格での入札が続くと、短期的には効率的かもしれないけれど、研究開発に回す資金がなくなって技術革新が停滞し、長期的にみたら効率的でなくなる、ということもあろう。
 「官製談合」といわれる事件の背景は、天下りが原因(結果?)とみる見方もあるけれど、現実には、もっと事情は複雑だと思う。
 公共事業については、例えば次のような話を聞いたことがある。
洪水で土手が切れてしまったとする。一刻も早い対応を行う必要がある。業者に依頼しても、業者は別の工事をしているわけだし、その工事を止めてもらってまでお願いできるか、という問題が生じる。また、年度末だと予算も十分にはなかったりする。それでもお願いせざるを得ない。そうしてお願いすると、結局、「借り」のようなものができてしまう。 
 やってくれる業者がないからといって、放置するわけにもいけない。各府省の公共事業の担当者は、私益を捨て公益を考えていたとしても、多かれ少なかれこのような難しい立場に立たされる。
 談合の防止のためには、各府省の公共事業の担当者が、こういう難しい立場に立たされないような仕組み作りも重要だと思う。

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2006年1月26日 (木)

耐震偽装

 しばらく前、ゼネコンでマンションを担当している人から、次のような話を聞いた。
 「10階建て以下のマンションを請け負っても、赤字覚悟である。40階建て以上のマンションになると利ざやが大きいので、そういうのを作りたいけれど、需給が心配である。」
 言外に、「どうして10階建て以下のマンションで、儲けることのできる業者がいるのだろうか」という疑問が滲んでいるように思えた。
 「耐震偽装」は、業界の目からみると、「やっぱり」ということだったのだろう。マンションのように、「成熟した市場で急成長」というのは、少し疑ってみた方がいいのかな、と思う。
 
 「耐震偽装」により、被害を受けたマンション住民は、気の毒としか言いようがないが、もう一つ、とても気になることがある。
 それは、偽装マンションで儲けようとした業者のため、優良業者が成長の機会を奪われたのではないか、ということである。誠実な者が誠実さゆえに市場から退場したとしたら、気の毒でもあるし、マンション購入者に限らず、社会にとっても損失である。

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2006年1月25日 (水)

公務員の苦労

 仕事の関係で過激な団体の方々と何度も面会する羽目に陥ったことがある。
 結局、その団体の長は、ミイラ化した死体の発見によって逮捕され、それ以降ピタリと来なくなった。
 公務員をやっていると、ときどきこういう人たちと接触する機会がある。辛い。
 それはさておき、公務員は、社会の恵まれない人たちを相手にすることが多い。若かりし頃、いくつかの重度心身障害者施設を訪問し、そこで働く職員の方々とお話させてもらったことがある。親から養育拒否された子供たちも多いとの話を聞き、悲しくなった。
 職員の方々の言葉の端々から推測するに、妊娠中、シンナーや薬物、飲酒などにより、重度心身障害者となって生まれ、親により養育を拒否された子供もいるようだった。
 また、職員の方がのうちでも、そういう不幸をまっすぐに受け止める人たちほど、バーンアウトして(燃え尽きて)しまいやすいとのことだった。心優しき人ほど辛い思いをする。
 「霞ヶ関で政策決定に関わる人たち」も「恵まれない人たちの支援に携わっている人たち」も同じ公務員だけれど、なんとなく両者の間のコミュニケーションが十分に取れていないような気がしている。福祉に対する目が厳しくなりすぎているような気もする。国民からの批判に、現場の悲鳴がかき消されてしまっているのが原因かもしれない。どうであれ、心優しき人に大きなしわ寄せがいかないように願うばかりである。

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2006年1月24日 (火)

自衛官の序列

 自衛隊の幹部候補生については、採用年次ごとに、序列のついた名簿を作成し、共有することになっている、という話を聞いた。
 つまり、150人の同期生がいたとしたら、勤務成績順に、1位から150位までの序列が示される、ということである。
 この話は、航空自衛隊と海上自衛隊の方から別々に聞いたのだけれど、両者とも「序列に関してそれなりに納得性がある」とのことで、人事担当者が苦心して評価し、作成していることが推測される。
 なお、昇進選抜にあたっても、この名簿が基準になるそうだ。なかなか厳しい。
 自衛隊の幹部候補生は、防衛大学校卒業者と一般大学からの採用者がいる。どちらが序列が高いのか(成績がいいのか)、という質問をしてみたら、あくまで印象だと断りつつ、若いうちは、防衛大も一般大も成績は同じようなものだけれど、だんだん、防衛大学校卒業者が上位を占めるようになっていっている、ということだった(ただし、しばらくしたら、一般大学卒業の幕僚長も誕生する見込みとのことである。)。
 若いうちは、部隊の現場で働くことが多いので、慣れている分、防衛大学校卒業者の方が成績がよさそうな気がするけれど、現実は逆らしい、というのは興味深い。
 私なりに理由を考えてみた。
 防衛大学校卒業者は、全寮制で4年間、「同じ釜の飯」を食べており、強い結びつきができあがっている。昇進するにしたがって、判断を要する仕事が増えることになるけれど、それに従い、沢山の信頼できる相談相手がいたり、体験を共有できる仲間がいることが、役に立ってくる。かくして、防衛大学校の卒業者の成績が上昇する、という結果なる。
 妥当かどうかは分からないけれど、機会があったら、いろいろ意見を聞いて検証してみたい。

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2006年1月19日 (木)

社会的地位と収入の不一致

 ヘミングウェイよろしく「勝者には何もやるな」というつもりはないけれど、「社会的地位と収入の不一致」が、日本の社会のよいところだと思っていたし、今でも思っている。
 かつては、「井戸塀」なんて言葉があった。「志をもって政治家になると家産を失い、井戸と塀しか残らない」くらいの意味である。「古き良き」日本の一つのロールモデルだったと思うけれど、今や死語である。
 私の知り合いには、ガンガン稼いでいたけれど、仕事への満足を優先させるために国際協力の道に進んだ人も多い。「井戸塀」型ロールモデルは、国内よりも国外に求めているような気がする。
 最近でも、ガンガン稼いでいる人から、国際協力分野への転身について相談されたりしたけれど、今のまま仕事をして、国際協力に賛助するような活動をした方がいいよ、といって思いとどまらせたりしている。
 お金より働き甲斐、という人たちも結構いるらしい、と思ってホッとする。

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2006年1月18日 (水)

独立行政法人と監督官庁

 しばらく前、JICAが独立行政法人化した。監督官庁である外務省の監督から離れて、自らの裁量が広がるかな、と考えた人が多かったかもしれないけれど、どうもそうではなく、あまり変わりない、との愚痴を聞いたりする。
 いきなり話は変わるけれど、国立大学が法人化し、国立大学法人になったけれど、文部科学省による関与の度合いが下がったか、というと、一概には言えないようである。
 国立大学法人についていうと、かつては文部科学省の一部だった。つまり、家族の一員みたいなもので、親(文部科学省)からすると、出来る子(大学)にも、出来ない子にも、それに応じた支援していく、ということをしていた。法人化後は、いうなれば、大学は、「関係業者さん」になったわけで、「優良業者」の立場は強いし、「そうでない業者」の立場は弱い、ということになっている。
 JICAは法人化してもあまり変わらない、ということであれば、元々、外務省にとって「関係業者さん」だったのか、などと考えたりする。

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2006年1月13日 (金)

役所の名簿

 「日本警察官僚総合名鑑 昭和23年(1948)~平成16年(2004年)」という本がある。18,000円である(高い!)。
 内務省解体に伴い、昭和23年に発足した国家地方警察本部、昭和29年に発足した警察庁に在籍した、いわゆる事務系の警察キャリアをすべてカバーした名簿である。それぞれが何年にどのポストに就いていたかが一目でわかるようになっている。
 各府省でもキャリア組と言われる人たちが、名簿を作っていたりすることは多いが、出版しているのは、これだけだろう。こういう名簿は、多くの場合、事務系と技術系 や試験区分で分かれていたりする。
 また、各府省の花形の部署では、その部署を経験した人たちのための名簿を作成している場合もある。
 こういう名簿は、プライドをくすぐる、という側面があるけれど、公務員が、組織なり、組織内の小集団への帰属意識の強さを示しているといえるだろう。
 公務員が小集団への帰属意識が強いということは、その小集団の権限が強い場合、公共物を私物化しているように思えてしまう(考えすぎか?)。
 また、こういった帰属意識の強さ、つまり、「日本政府職員」ではなくて、「○○省 職員」「○○省キャリア(事務系)」という意識の強さ、というのは、行政におけるの「セクショナリズムの弊害」の原因にもなっていると思われる。
 一方で、帰属意識の強さが、職務への熱心な取り組みや後輩への指導などにつながる面もあり、メリットもあろう。
 その功罪はよくわからない。ただ、帰属意識の強い集団に属したくない人には生きていきにくいことだけは確かのようだ。

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2005年12月25日 (日)

役所内のルール

 「規制緩和」と言った場合、企業活動を規制するルールを緩和することを想定しているが、役所に勤めるものの目から見ると、役所の内部のルールは、企業活動を規制するルールよりもはるかに煩瑣で複雑で硬直的だったりする。これらのルールは、公務員の仕事の効率を低下させる一因ともなっている。
 このため、企業活動の規制と同じように、役所の内部のルールも緩和して欲しい、と思う公務員も多い。
 ただし、これらのルールは、公務員の中立性、公平性という要請に基づいていたり、専門的見地から設けられたものだったり、はたまた、不祥事などを原因で作られたものだったりする。
 要するに、公務員の側から「ルールを緩和して欲しい」とは言い出しにくいものだったりするわけである。
 また、役所の内部の仕組みの話なので、国民は興味を持たない。このため、政治家やマスコミも興味をもたないか、持ったとしても取り組むとは思えない。
 結局、役所内のルールについては、当事者である公務員は緩和を言い出すことができず、国民、政治家、マスコミは緩和しようとする誘因がない。したがって、役所内のルールは、相当のことがない限り温存されることになる。
 「制度疲労」という言葉があるけれど、以上は、発生原理の一つにカウントできるかもしれない。

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2005年12月22日 (木)

個人情報保護

 私の属する組織では、今年から職員住所録を作成しないことになった。個人情報保護法の施行の影響である。
 年賀状を書く数が減ると思われる。郵政公社にとってはあまり嬉しくないことだろう。ちなみに私は、しばらく前から年賀状をもらっても返事を書かないことにしたので、影響がない(というか歓迎である。)。
 個人情報保護法により、行政学のうち、官僚論を取り扱う人は研究に重大な支障を来すと思われる。法政大学の早川教授は、公開資料を丹念に集めて官僚のキャリア開発を分析した分厚い本を著したけれど、今後はそれができなくなるだろう。
 少し心配である。

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2005年12月17日 (土)

住民と行政

 田舎育ちなので、善し悪し含め、近隣の支え合いを見て育った。あとで考えて、なかなか良いのではないか、と思った例を挙げる。
 手狭で老朽化した地区の集会所を建て替えようということになり、どんな建物にするか、どれくらいの寄付を求めるか、といったことで、何度も何度も話し合いがもたれた。方針が決定し、各家庭に寄付を募ったところ、しっかり集まり、なかなかいい集会所が建てられ、活用されていた。
 なんとなく住民の間に「公共心」というのがあって、地区の問題は地区で解決する、というような自治(?)の規範があったように思う。
 さて、行政批判は、公務員による不祥事、行政の非効率といったことが原因であるが、それだけではなく、行政サービスへの要求の高まりが原因の一つだと言っていい。この行政サービスへの要求の高まりは、「公共心」「自治の規範」が失われていったことが背景だと思われる。
 行政の問題は、行政サービスを供給する側と行政サービスを受ける側の両方に原因があると考えるけれど、「行政サービスを供給する側が一方的に悪い」「国民生活に起こった問題はすべて行政が解決すべきだ」ということを前提としていると思われる言説であふれているのは、あまりうれしくない。
 かつて、静岡県の掛川市長は、新幹線の掛川駅を建設するよう、国鉄(現JR)に104回、陳情を行ったそうだ。当時、新幹線の静岡と浜松の間は、70キロほどあり、駅間距離として最長であり、建設の合理性があった。
 市長らの努力の甲斐あって、駅をつくることになったが、掛川市自体は10万人規模であり、新幹線の駅を作る財政的な余裕がなかった。そこで、市長は、建設費のうち、30億円を寄付により賄う計画を立てた。
 これに対し、当時の自治省の担当官が、「そんなことできるわけがない。できたら、ここ(霞ヶ関)から銀座まで逆立ちして行ってやる」なんてことを言ったそうである。
 しかし、果たして、企業の寄付に加え、家庭からの10万円単位の寄付も集まり、結局、30億円集まってしまった。
 もともと、掛川は、「いざというときは社会のために働く」という規範が強い土地柄だといわれている(二宮尊徳の弟子の影響か?)。「だからこそ寄付が集まると考えた」と元市長は述懐している。掛川市に倣って同じように募金を募った市町村は、ことごとく失敗しているといって良いだろう。
 住民の側がこういう人たちだから、行政もうかうかしていられない。とにかく掛川市役所の職員はびっくりするほどよく働いている。「WIN-WINゲーム」が成立している。
 「政治は、市民を映す鏡だ」と言われたりするけれど、行政も市民の映し鏡であることに、そろそろ気がついた方がいいのではないかと思う。

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2005年12月10日 (土)

自衛隊の人事

 自衛隊の人事ってあまりなじみがなかろうかと思う。それなりに興味深いので、少し解説してみる。
 まず、自衛官には階級がある。階級は、幹部、曹、士の3つに大きくわけられ、次のとおりさらに細かく分けられる。以下は、陸上自衛隊の例である。
(幹部)
統幕議長、陸・海・空幕長(以上、大将扱い)、
陸将(中将)、
陸将補(少将)
1等陸佐(大佐~准将:行政職(一)9級から11級(企画官から本省課長相当))
2等・3等陸佐(中佐、少佐:本省課長補佐相当)
1等陸尉(大尉:係長相当)、2等陸尉、3等陸尉
(曹)
准陸尉、陸曹長、1等陸曹、2等陸曹、3等陸曹
(士)
陸士長、1等陸士、2等陸士、3等陸士
 幹部の採用数は、陸上自衛隊の場合、だいたい防衛大学から200人、一般大学から100人くらいである。
 一等陸尉への昇進までは、同時昇進で、そこから昇進に差がつくようになる。1等陸佐(=各省庁でいうと企画官クラス)に昇進する際は、最初に20人程度が昇進するらしい。タイミングは、だいたい40歳過ぎである。いわゆるエリートは、各期ごとに20名程度必要、ということらしい。
 昇進にも、ある程度傾向があって、陸上自衛隊は、陸上幕僚監部(市ヶ谷の本部)での勤務が重視される。なお、海は、艦船での勤務が、空は、パイロットが有利とのことである。
 自衛官は、13万人くらいはいるし、任期職員も多いので、自衛隊経験者が自衛隊シンパだとした場合、選挙で100万票くらいにはなると思うけれど、その政治力を行使しているようには思えない。逆に、国会議員の場合、「国防族」は、かえって選挙に不利になる場合も多かろう。広島選出国会議員が、防衛庁長官に就任したら、次の選挙で負けてしまった、ということもあった。
 自衛隊の精強性を確保するため、定年は一律60歳、というわけにはいかない。陸将、陸将補は、60歳だが、1等陸佐56歳、2等・3等陸佐55歳、1等陸尉から1等陸曹54歳、2等・3等陸曹53歳となっており、「士」は、任期制隊員となっている。
 したがって、退職後の就職先の斡旋が課題である。人数も多い分、優雅な天下り、というわけにはなかなかいかないと想像する。
 アメリカだと、修士号取得者も多いし、就職先として、大学やシンクタンクもあれば、防衛産業も多いので、転職先にはそんなに困らないようだ。そういえば、国連の安全調整官室(UNSECOORD)の職員は、アメリカ陸軍を早めに退職した人が多かった。

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2005年12月 7日 (水)

政府による公的支援

 耐震偽装関係で、政府による公的支援が行われるようである。
 耐震偽装関係に公的支援が行われるとした場合、住宅リフォーム詐欺や欠陥戸建て住宅の被害者への対応にどうして公的支援が行われないのか、見捨てていいのか、といった議論を惹起するのではかなろうか。気がかりである。
 
 それはさておき、「小さな政府」というのは、民と民との契約関係における紛争について、行政が手を引き当事者間の話し合いで決着が図ることを想定していると考えるべきだろう。この場合、話し合いが不調に終われば、裁判による解決を図ることになるし、政府に問題があれば、政府に対しても訴訟を起こせば良い。
 余計なお世話といえばそれまでだけれど、「小さな政府」論者は、「耐震偽装については、民と民の契約関係において生じた問題であり、政府は介入すべきでないし、新たに行政の仕事を増やすべきでない」と主張すべきであろう。
 これは、「小さな政府」論者の主張の典型的な在り方を示しているに過ぎないのだけれど、誰一人として主張しないのは、大変に興味深い。
 そもそも「小さな政府」を志向することは、国民に対して、「市場における自己責任」を課し、行動規範の大きな変更を要求する。「民でできるものは民で」というのは、「民の問題は民で解決」という意味も含んでおり、こと経済的な面では、自分の身は自分で守ることが要請されている。
 耐震偽装問題は、こういったことを十分に理解してもらうためのきっかけになり得ると思うのだけれど、今回の処理の仕方は、「大きな政府」のそれであり、うやむやになってしまいそうである。「小さな政府」の実現が、行動規範の変更を伴う以上は、早めに国民に知らしめることが重要だと思うのだが。
・・・・・
追記 現在、政府はどうあるべきか、サイズをどうすべきか、という議論をしているけれど、議論の最初のステップは、「望ましい個人のあり方はいかなるものか」を考え、その次に、「どのような政府が好ましいか」を構想すべきであろう。
 なぜなら、個人は、国家や政府のための産まれ落ち、生活しているわけではないからである。ルソーも、デカルトの提出した、「神の被造物でない個人」を基礎に民主的政府を構想したわけで、民主的政府をもとに「個人」を構想したわけではない。
 「小さな政府」論は、こういう順序でものを考えているように見えず、「まず政府ありき」と考えているように見える。仮に、順序を整理し直すとすると、「小さな政府」論における「望ましい個人」は、「市場において自己責任を引き受ける行動規範をもった人間」であり、その結果として、「小さな政府がいい」と考えていることになろう。
 「市場において自己責任を引き受ける行動規範をもった人間」という考え方は、私自身はそれでも生きていけると思うけれど、いわゆる「社会的弱者」を念頭におくと、こういう考え方が望ましいとは私には思えない。
 世知辛い世の中になりそうで、不安である。

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2005年12月 4日 (日)

警察署・・・

 夜中に警察署にいく羽目になった。
 車で向かったのが2時半、家に帰り着いたのが4時半、というような時間帯だった。
 私が到着し、玄関から入ろうとすると、緊張が走ったのがわかった。用件を説明すると、係官はホッとした様子だった。常在戦場という雰囲気があった。
 夜の警察署は、窓口のところには人がほとんどいないけれど、働いている人が結構いた。電話がなるのも聞こえてきていた。
 そういえば、行き帰りの道すがら、パトカーを何回か見かけた。パトロールをしているわけである。大変だな、と思う。
 あるテレビ番組で、シングルの女性が、「よく考えてみても、行政のお世話になっているのは、ごみの収集しか思い当たらない。そう考えると税金が高い」と怒っていた。シングルの男女が税制上不利なのは分かる。しかし、せめて、治安も道路整備も行政サービスだ、と理解すべきだし、現場で苦労している人の気持ちを少しくらい想像して欲しいと思う。

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2005年11月30日 (水)

木造天守閣

 建築基準法は、欧米諸国に比べて大変厳しいと言われる。
 理由は明らかで、日本には、地震をはじめとする災害への対応が求められているからである。
 建築基準法では、15メート以上又は3階以上の木造の建物は認められていなかった(ただし、「外圧」で、3階建ては、旧建設省はしぶしぶ認めることになった。)。
 このため、国宝である姫路城は木造であり、建て直した大阪城、広島城などは、鉄筋コンクリート造である。
 ある市長が、地元の城の天守閣を再建しようとしたけれど、鉄筋コンクリート造は、嫌だ、と考えたそうである。そこで旧建設省の(今話題の)建築指導課に掛け合った。建築指導課は、駄目!という返事をしたみたいだけれど、「姫路城は木造のまま400年も大丈夫である。2度の大地震にも耐えている」と主張した結果、建設できることになった。
 そうすると、いろいろな自治体が、「うちも、うちも」ということになり、結局、歴史的建造物は、建築基準法の15メートル制限から取り除かれることになった。
 この話からいくつかわかることがある。
 その一つは、「役所の決定は、例外を認めると、例外でなくなる」ということだろう。
 地方分権が進んでいるが、こういう元気の出る提案が地方からどんどん出てきたらいいな、と(淡い)期待を持っている。

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2005年11月29日 (火)

性善説と公務員数

 建築基準法による審査が問題になっているけれど、日本の行政による審査は、おおむね性善説に立っている。したがって、審査といっても形式的な審査が多い。つまり、やるべきことをやっているかを確認する程度であって、虚偽の報告を見抜くことは難しい。
 一方、性悪説に立った場合、審査を徹底的に行うことになる。徹底的に行うのであれば、審査を民営化する、という発想は出てきにくい。民間の審査代行者を信頼せず、チェックを行うのであれば、はじめから行政が審査をした方が効率がいい場合もあろう。いずれにせよ、性悪説に立った審査は、多くの人員を必要とする。
 
 知り合いのアメリカ連邦公務員は、「アメリカの行政は、レーガン大統領以来、民にどうしてもできないものを官に任せている」と誇らしげに言っていたが、「じゃあなぜ、人口比の公務員が日本よりアメリカの方が多いのだ?」と質問しても、答えは返ってこない。
 私のみるところ、アメリカは性悪説に立った審査が一般的であり、行政による審査は、「民にどうしてもできないもの」と考えていると思われる。
 話は変わるけれど、小さな「行政府」は、大きな「司法府」を必要とするように思われる。行政の関与(この場合、規制による紛争防止機能)が小さくなると、当事者同士での解決を図ることとなり、司法の関与が増えるだろう。
 しかし、現下の状況では、司法試験合格者を増やしているが、裁判所の人員を増やすという話にはなっていない。このままで大丈夫なのだろうか、と心配になってくる。

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2005年11月26日 (土)

ルールが変わった?

 11月21日だったか、毎日新聞に、高校野球で賭博をしたとして、政府関係法人の職員10数名が書類送検された、という記事があった。賭けたお金は、千円(1000円)だったそうだ。「民間企業だったら、報道されるだろうか?」などと詮無いことを考えた。
 それはともかく、平成に入ったころまで、1000円くらいの野球賭博は、官民とも(!)当たり前に行われていた。社会が許容していたといえるだろう。
 しかし、間もなくしてルールが変わった。「バレたら大変なことになる」ということに気がつかず、続けていたわけである。「指示やメッセージが正しく届いていない」ということに問題を感じる。
 話は変わるけれど、ある省の職員の問題行為が発覚し、そのスキャンダルが収束した後、同じ構図をもった問題行為を新たに開始し、再びスキャンダルとして指弾された、ということがあった。その省の幹部は、「本省にいると国民の批判がどんなものかヒシヒシと感じることになったけれど、本省以外で働いている職員に十分に伝わっていなかったことが残念」といった趣旨のことを話していた。
 なにか事件があっても、行動変容までには時間がかかるということだろう。
 役所が変わっていかないのは、こういう鈍感さが原因のひとつなのかもしれないと思う。

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2005年11月18日 (金)

規制緩和・事後監視

 建築士が建物の耐震性について虚偽報告を行い、民間の検査会社が見逃した事件が報道されており、大きな社会的関心を呼んでいる。震度5強で倒壊の可能性がある、なんていわれると、ビビッてしまう。
 この事件は、民間に任せている公益性のある検査で不正・見逃しがあったわけだけれど、検査の確実性・効率性についてみると、民間がやろうが、行政がやろうが、どちらにもメリット・デメリットがあり、一概にどちらがいいとは言えない。仮に行政がやった方がいい場合であっても、現下の規制緩和圧力、予算・定員の厳しさからすると、とにかく民間に任せてしまいたい、と考えてしまうものと思われる。かくしてどんどん民間委託が進むことになる(ちょっと心配。)。
 それはさておき、倒壊の可能性のあるマンションの入居者の被害は深刻である。
 仮に行政が担当していたら、賠償を確実に受けることができるが、民間企業や個人の行為については、話し合いや裁判で争うなどして賠償を勝ち取ることになるが、相手が倒産・破産したら賠償も受けられない。この件でも、十分な賠償を受けられない可能性が高いと思われる。
 規制緩和は、事前審査型から事後監視型に転換する、という意味合いがある。
 今回の事件に巻き込まれたマンションの入居者の立場を不安定にしているのは、日本では規制緩和をしたけれど、事後監視型になっていないことが原因のように思う。
 アメリカのように、「巨大な罰金」で違反を減らし、「訴訟リスクに備えた(巨額な)保険」により被害者の保護を図る、というようにすべきなのかもしれない(あまり嬉しくないけれど。)。

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2005年11月12日 (土)

行政批判

 行政が批判されている。かつては、政治への批判が強かったが、現在では、行政に重点が置かれている。
 頻発するスキャンダルに加え、政治の側でも行政批判を展開していることも原因の一つだろう。
 政治と行政の関係は、上司と部下のようなものである。したがって、政治による行政批判は、見ようによっては、上司が部下を公衆の面前で罵倒しているようなものにもみえる。しかも、部下は上司に説明することはできても、批判してはいけないことになっている。
 こう理解すると、見ていてあまり気持ちのいいものではない。それを国民が喝采しているのは、「政治と行政」の関係を「上司と部下」ではなくて、「坂本竜馬と江戸幕府」くらいに捉えているからではなかろうか。
 話は変わるけれど、かつて国民から政治へ強い批判がなされていたときには、「政治家を選んだ国民が悪い」という主張が批判の抑止効果を持っていたように思える。言論の自由、普通選挙権が保障されている国で政治を批判することは国民自身が選んだ人たちを批判することになり、結果として、自分自身を批判することになる。
 国民からみて、行政への批判には、こういった歯止めがない。
 しかし、政治家からみると、行政が政治のコントロールを受けている以上、政治による行政への批判は、政治家が自分自身を批判していることにもなる。
 時間が経てば、このことが少しずつあらわになってくるように思う。

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2005年11月 9日 (水)

職業公務員とエリート

 職業公務員という言葉を明確に定義しするのは難しいけれど、だいたいのイメージは掴めると思う。能力主義で採用され、キャリアの大半を公務員として過ごすことが想定されている人たち、くらいのイメージだろう。
 アメリカでは、一般に、能力主義で採用された職業公務員はエリートではない。
 政治的に採用された被政治任命者としてのエリートに政策決定の主導権を握られており、執行者に甘んじているというのが妥当な説明だろう。
 これは、アメリカには、職業公務員以外に、政策知識が豊富な人材を育成するシステムが十分に整備されてきているから可能な方法であるといえると思う。
 一方、イギリスの場合は、エリート職業公務員と言える者がいる。彼らは、いわゆる「オックスブリッジ」の教育課程に沿った公務員試験により採用されている場合が多い。
 しかし、現在では、サッチャーによる改革の結果ともいわれる「ホワイトホールの終焉」(ホワイトホールとは、日本でいう霞ヶ関)が言われており、そのパワー、モラールが低下していると指摘されている。最近の政策による混乱を聞くにつけ、行政の弱体化が進んでいるようにも思えるし、かつてはみられなかったような法案の条文ミスが目立つようになっているという話も聞く。
 フランスについては、ほとんど説明が必要ない。今でも、エリート職業公務員が圧倒的な影響力を持っている。
 米英仏は、公務員のあり方に関し、それぞれ大きく違った道を歩んでいるように思える。
 翻って日本をみると、戦前からエリート職業公務員を育成することに意を用いてきた。藩閥で高官が決まるのを防ぐためか、高等文官試験というエリート職業公務員を採用するための試験をつくった。この試験は、曲折があっても、結局、戦後に引き継がれている。
 現在、公共部門を小さくする、公務員を減らす、給与を下げる、政治的任命を行う、といった施策(又は施策案)が、与野党問わず主張されており、今後、職業公務員のパワーと能力を奪っていくことは確実だろう。それならば、併せて職業公務員(の一部)をエリートとするか否かという問題を真剣に考えた方がいいのではないかと思う。
 問題の中心は、職業公務員に代わって誰が政策の企画立案の担い手となるのか、ということである。不幸なことに、日本には、政策知識が豊富な、いうなれば、「政策エリート」が、霞ヶ関以外にあまりいないことである。
 いずれにせよ、こういった、政策の新たな担い手に関する議論がほとんど見られないことを心配している。

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2005年11月 2日 (水)

社会的ダーウィニズム・市場主義・新古典派

 現代の日本で市場重視をする人は、アメリカで100年くらい前に流行った社会的ダーウィニズムの信奉者に類似している。
 サムナーという社会的ダーウィニズムの信奉者は、「我々には2つの選択肢しかないことを理解すべきだ。『自由・不平等・適者生存』と『不自由・平等・不適者生存』である。前者は社会を向上させるし、後者は下落させる」といった趣旨のことを言っていたそうだ。「『不適者生存』という言い方は、「不適者」は死んでしまえばいい、ということかい?」と聞きたくなるが、サムナーなとうの昔に亡くなっている。いずれにせよ、どこか、今の日本における問題設定に似通っているように思う。
 「生存競争による淘汰は、種を進歩させる」という進化論の説明は、おおむね理解できる。しかし、競争による淘汰が効率的かどうか、というのは別の話である。生物の世界における淘汰は、非常に効率が悪いと思う。亀も鮭もマンボウも蟷螂も、ものすごくたくさんの卵を産むけれども、成長できる確率は極めて低い。
 これを、人間社会にそのまま当てはめていいとはとても思えない。「 競争の場である市場は、人為的に作られるものである。人間社会のどの範囲を市場とするか、人間の叡智が試されると思う。市場主義者は、せっかくの叡智を活用することなく、判断を停止しているように見える。
 話は少し変わるけれど、日本の官庁エコノミストは、新古典派経済学者が多い。
 どうして、日本の官庁エコノミストは、新古典派経済学が好きなのか、次のような複合的な理由がある、という仮説を立ててみた。
(1)財政危機の影響
 財務省は、財政を立て直す使命があり、そのためには、小さな政府を指向する立場にある。小さな政府を指向する経済学として、新古典派経済学が好まれる。また、財務省と共同歩調を取ることが得策と考えるエコノミストは、新古典派経済学を支持してしまう。
(2)哲学的訓練を受けていないこと
 新古典派経済学は、極端に合理的な「経済人」を想定する。古典派の創始者であるアダムスミスのごく一部を切り取った前提である(一部しか継承せずに「新」古典派を名乗るべきでないと思う。)。アダムスミスの倫理学説を少しでも齧る気持ちになる人であれば、新古典派の信奉者になるとは考えにくいと思うがどうか。
 いずにせよ、極端に人間を単純化して捉えること自体、哲学的訓練を受けた者にはできることではない。
(3)ルサンチマン
 小学校の頃、「ガキ大将」にいじめられるなどして、彼らにルサンチマンをもった優秀な人たちが「市場を重視する」という考え方を選択しているように思える。つまり、多くの場合、「ガキ大将=市場での弱者」という等式が成り立つので、「市場を通じてガキ大将に復讐したい」という動機が裏にあるのではないか。この「ガキ大将説」は、かなり限定的だけれど、新古典派経済学の信奉者には、「弱者への憎悪」をどこかで育ててしまった人は多いのではないかと思う。
 しかし、能力のある人は、大人になるに当たって、どこかでルサンチマンを溶かして寛容になって欲しいところである。ロールズではないけれど、能力は偶然に与えられるものだし、社会的共有財産と捉えてもいいのではなかろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ここ最近、市場主義・新古典派・小さな政府への呪いの言葉を投げかけてばかりいたけれど、空しいのでそろそろ止める。これを最後に、頭を切り替えて別なことを考えよう・・・。

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2005年10月31日 (月)

中教審

 中教審が義務教育国庫負担維持を主張している。
 この主張に対しては、色々批判があるが、もっと議論すべきことがあろうかと思う。
 例えば、教員の質の維持に関する問題がある。
 現在、教員の人員構成は、第二次ベビーブームへの対応のため、50歳前くらいに大きな山がある。これにより、近い将来、新たに多くの教員を採用していかなければならない。しかし、現時点で、教員採用試験が2倍強の低倍率となっているところもあるそうだ。掛け持ち受験も多いと考えられることからすると、教員の質は相当の危機を迎えているように思える。
 できるだけ早く、中教審が、本来の役割である「わが国の教育の在り方」を議論できるようになって欲しいと願う。

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2005年10月26日 (水)

公務員の削減

 公務員を削減しようとしている。公務員の削減を主張する国会議員の方から直接話を聞いたところ、「仕事を絞りながら対応してほしいと思っている。」ということだった。公務員を削減していくと、効率化には限界があるので、仕事を絞らざるを得なくなるのはやむをえない。
 一方で、国民から、行政にしてもらいたい仕事の要望は多い。
 廃棄物不法投棄、児童虐待の放置などの事件が起こると、「行政の怠慢」と批判される。これは、不法投棄をしっかり取り締まれ、児童虐待への対応をしっかりしろ、という要望でもある。しかし、実際、不法投棄を取り締まるための、児童虐待に隅から隅まで目を光らせるための、予算も人もないのが現状である。精神論で「やれ」と言われても無理がある。ただ、現在までのところ、行政は批判に甘んじている。
 かなり古い話になるけれど、ニューヨークのお隣のニュージャージーで、予算不足のために、幹線道路の半分しか雪かきをしなかった、という話を聞いたことがある。
 また、1990年代初頭、予算が成立しなかったため、米国連邦政府職員が休みになった、ってこともあった。
 これらは現在の日本では考えられない。しかし、このまま公務員を削減したら、「予算と人がないからできない」という主張をすることが一般的になるかもしれない。
 余計なお世話かもしれないが、少々心配している。

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2005年10月25日 (火)

キャッチアップ

 ある行政分野の月刊の業界誌を1950年代から辿っていった。
 その行政分野の特殊性もあるけれど、先進諸国へのキャッチアップが目標とされていた1970年代頃までは、外国の事情をしっかり調べた報告が多数掲載されていた。
 それら報告で、インドを扱っていたのには失礼ながら驚いた。中国の歴代王朝についての報告には、もっと驚いた。「何もそこまで」と思うのは私だけれはあるまい。
 とにかく、その行政分野について、貪欲に調べ、日本の政策に反映していこうとする意欲が漲っていた。古い本の中に、若々しい日本を見つけたような気がした。
 その業界誌は、マニアには受けるかもしれないが、もう面白くなくなってしまった。
 キャッチアップの段階を終えて、目標としてきた諸外国に対する知識欲がしぼむのは、当然の成り行きだろうけれど、全体として知識欲が減退しまったように見えるのが残念である。
 キャッチアップが終わったら、今度は、新しい分野に挑戦するなり、世界をリードするような気概がなかったために、活力が失われてしまったといえるだろう。
 一業界誌から現在の行政が透けて見えたような気がした。

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2005年10月23日 (日)

政策マーケティング

 役所でも、コンサルタントと契約することが当たり前になってきている。
 そうした中、ある友人は、法律で決まっていることを全く無視するコンサルに振り回された、と愚痴っていた。「法律は、行政府が決めることでない」と言っても、全く聴く耳を持たなかったのだそうだ。
 「plan do see」とコンサルタントは言うけれども、役所は、民主的統制のために、「plan decide do see」とするといったことが必要で、「decide」の部分は、国民の代表の判断を仰ぐこととしている。一方、現在では、公共サービスであっても、「decide」の部分が必要なさそうな場合は、独立行政法人にするなどの工夫を行っている。
 それにしても、法律が国会で決まることさえ理解しないコンサルタントというのは、存在してよいものだろうか、と思う。
 さて、どこの県とはいわないけれど、政策マーケティングという考え方を導入した。民間企業のやり方をそのまま政策に生かす、というものだった。政策マーケティングでは、要望窓口を設け、「なんでも言ってください」としつつ、寄せられた声を政策に生かすこととした。
 当然失敗した。
 県というのは、独自の事業もあるけれど、国と市町村の仲介機能を果たしており、行政需要の一部を担っているに過ぎず、住民へのサービスの占める割合は小さい。要するに、「生活保護」のようなナショナルミニマムの観点から国がやっている事業や、保育園のような市町村がやっている事業について県が受け付けても無理!ということだろう。
 コンサルタントに発注した結果がこれである。県の機能を全く理解していないとしかいいようがない。県側の能力不足も原因かもしれない。
 いずれにせよ、そういうコンサルタントは、中学校の「公民」の教科書を読んでから出直すべきだと思う。

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2005年10月22日 (土)

新古典派と行政官

 経済学を勉強しはじめた頃、新古典派経済学のモデルの美しさに惚れてしまっていた。物理学を勉強したときも、そのモデルの美しさに惚れてしまった。
 惚れてしまうと盲目になってしまうのが常だけれど(?)、物理学に惚れても、パートナーや少数の友人の迷惑になってしまうくらいで済む場合が多い。しかし、新古典派経済学に盲目になるほど惚れてしまった人が、経済政策の担当者になってしまうと迷惑の及ぶ範囲が極めて大きくなる。
 経済政策の担当者に必要なのは、新古典派経済学に惚れてしまい現実に対して盲目になってしまうのではなくて、新古典派なりの経済理論を十分に学びつつ、現実の経済活動をしっかり見る視線が必要なのだと思う。
 私の知り合いにも官庁エコノミストが何人かいるけれど、ある厚生労働省のエコノミストは、仕事上弱者といえる人たちと触れあう機会が多いためか、新古典派経済学をどうしても好きになれないと言っていた。
 逆に、マクロ経済運営を担当し、弱者といえる人たちと触れあう機会が少ない旧経済企画庁のエコノミストには、「新古典派が背広を着て歩いている」というような人が結構いたりする。
 人事を担当する者の立場からすると、人事交流を積極的に進めることが、官庁エコノミストの資質の向上に役立つと思う。
 さて、しばらく前、ある有名な、新古典派があまり好きでない、スウェーデンに在住経験のある経済学者と、一対一で議論させてもらった。そのとき、「どうしてスウェーデンの経済運営は上手く言っているのでしょう?」という質問を投げかけてみた。そうしたらほとんど迷わず、「経済学者のいうことを聞かないからだと思います。」という返事が返ってきた。名回答だと思った。
 経済学者が理論的な説明を行い、官庁エコノミストがその理論を咀嚼して現実の政策に当てはめるために考える、というのがあるべき図式だと思うけれど、スウェーデンの官庁エコノミストは、新古典派経済学が優勢な状況にあっても、それが現実にそぐわないと考えたら、「無視する」という判断ができる、という風に私は理解した。
 現在、学会で圧倒的に優勢な新古典派経済学を、私はどうしても好きになれないけれど、つまるところ、理論と現実の橋渡しをする人たち(この場合、官庁エコノミスト)が、その役割を十分に果たしていれば問題ない、ということなのだろう。

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2005年10月19日 (水)

予算・人事の評価

 国連は、プログラム予算である。プログラム予算では、プログラムごとに、インプットとアウトカムが明確になるので、実績の評価を行いやすい。実績に関する評価を下に、次の予算を考えていくことができる。
 一方、日本は、あえていうならば細目予算であり、インプットとアウトカムの関係を明確にすることが難しいので、実績を評価しにくい。このため、実績に関する評価が、予算を考えていく材料になりにくい。
 似たようなストーリーが人事についてもいえる。
 国連では、いわゆる職階制を実施しており、あるポストの職務内容が募集時に明確にされる。職務内容が明確なので、人事評価を行いやすい(公平・公正であるかどうかは別!)。
 一方、日本では、ポストの職務内容が明確でない。能力・意欲により、多く担当させられたり、少なく担当させられたりする。結局、人事評価を行いにくい。
 かといって、日本で、人事評価を行っていない訳ではない。
 たとえば霞ヶ関についてみると、10年から20年くらいは給与、昇進に差をつけないものの、10年とか20年も経てば放っておいても評価が定着し、評価が低い者は、傍流ポストに振り分けられていき、適当な時期に肩たたきに遭う、ということになる。霞ヶ関における人事評価は、長期雇用でないと機能しないように出来てしまっている。ある程度の伝統をもった企業も、似たような状況ではないかと推察する。
 現在、日本では、成果主義、能力主義などなどの導入に試行錯誤しているが、本来ならば、その前提として、職務内容を明確にしていくという作業が必要である。しかし、これは膨大な作業にならざるを得ず、導入には相当の覚悟が必要だろう。
 それだけでなく、成果主義、能力主義等の導入によって、かえって問題が生じてしまうのではないか、との懸念もある。たとえば、個人単位の評価を徹底するため、職員が同僚のサポートをしようとしなくなるかもしれないし、情報を融通しなくなるかもしれない。手柄を独り占めするくらいならいいが、人の手柄を横取り、なんてことも容易に想像できる。「縁の下の力持ち」がいなくなってしまうかもしれない。そうやって、組織全体のパフォーマンスが下がっていく。
 はて、これは、国連でみたことのあるような。

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2005年10月14日 (金)

選択と集中

 小泉政権のスローガンは、「選択と集中」である。有名どころでは、「決断と実行」や「寛容と忍耐」なんていうのもあった。「選択と集中」というのは、うまく政権の方針を示すことに成功していると思う。従来の「バラマキ」型の政治・行政と対峙する、ということなのだろう。
 さて、公共部門のうち、たとえば道路建設などに関しては「選択と集中」というスローガンは適当なものだと思う。
 その結果というわけではないけれど、国の公共事業関係費は、平成10年に約15兆円だったのを、平成17年度には、約半分の7.5兆円に落ち着きそうである。
 しかし、「選択と集中」が適当でない分野もある。たとえば将来の成長産業については、さまざまなアイデアがあって、どれが伸びるかなんてことは、予想がつかない。このため、研究開発については、バラマキ型も覚悟する鷹揚さがないと、国際競争力を弱めかねないと思う。
 話は変わるけれども、現在、PFIや市場化テストなどにみられるように、公共部門に民間部門が押し寄せてきている。適切な範囲で実施するのは当然といえば当然であるし、歓迎すべきことでもある。
 ただ、公共部門に血道を上げて参入しようとする企業よりも、公共以外の部門で頑張ろうとしている企業の方が未来があるように思う。つまり、ヤマト運輸のような創意工夫でもって公共部門に進出しようとする企業がある一方で、リストラで「選択と集中」をしすぎた結果、アイデアが枯渇してしまい、活路が公共部門くらいにしかなくなってしまっているような企業も多いのではなかろうか。
 余計な心配だとは思うけれど、「選択と集中」というスローガンの適用範囲も、「選択と集中」をしておくべきかと思う。

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2005年10月13日 (木)

政策策定作業・・・

 アスベストについての対策の遅れが問題になっており、行政が批判されている。
 新聞は、「セクショナリズムが原因だ」というような説明をしている。それも原因のひとつだろう。ここでは、もうひとつ原因を挙げたい。それは、政策決定のために通らなければならない手続きが重たくなりすぎていること、である。
 政策の企画立案の担当者にとっては、書けば涙の物語になるのだけれど、どのようなやる気をくじく要因があるか、サラッと書いてみる。
 不確実な(絶対確実ではない)情報をもとに対策を行う場合を想定する。アスベストも当初は有害性が絶対に確実というわけではなかったようなので。
(1)政府全体で規制を「とにかく減らせ」との圧力がある。「社会的規制は必要だ」という主張がかき消されている。したがって、各府省とも新たな規制を設けることには消極的である。担当者は、業界が自主規制でやってくれればいいのに、と考えてしまう。
(2)不確実な情報の下での政策決定については、上司(課長、局長)を説得することが極めて難しい。「不確実性を排除してからもってこい」というような無理難題が押し付けられる場合もあろう。
(3)上司が納得したとしても、自分の省庁の予算担当がなかなか納得してくれない。この問題以外にも問題は山積しているし、予算の枠は決められているので、不確実性に基づいた新しい施策を入れる余地はほとんどない。
(4)昭和50年代から予算にはシーリングが設けられている。財務省にしても、新規施策をなかなか納得してくれない。
(5)新たな規制のためには、法律も改正しないといけない場合が多い。法案の作成、官房及び内閣法制局での法令審査、各省協議(200問も質問を投げ返してくる、といったこともあるが、いちいち答えないといけない)をこなす必要がある。
(6)業界団体から圧力がかかるが、説得に努めないといけない。
(7)政治家への説明にも労力を使う。他に重要法案があったら、国会の会期切れで廃案、なんていう憂き目に遭ったりする。
 この他にも、さまざまな作業があるけれど、この辺でやめておく。
 要するに、担当者が、国民のために政策を実施しようとしても、作業が膨大があるだけでなく、各方面に頭を下げながらお願いし、小突き回されることになる。しばしば自分の健康も心配なくらいな状況に置かれる。こういった状況の下で、結局、あきらめてしまった施策は数多いのではないかと思う。アスベスト対策もそのひとつだと私は思う。
 政策の企画立案にこんなにコストがかかるのは、担当者にとって大変不幸なことであり、回りまわって国民にとっても不幸である。なんとかならないのだろうか。
 根本的な解決ではなけれど、ひとつの対応としては、国会議員がイニシアティブをとって政策を策定するといったことが考えられる。立法府と行政府でバランスよく責任・イニシアティブを分け合う方がいいと思う。現在は、行政府に政策の責任、イニシアティブが偏りすぎているかと思われる。
・・・・・
追伸 日本もアメリカのように議員立法に通称名をつけてはいいのではないかと思う。「松井-鈴木法」といった名前が残せるなら、頑張って立法作業をすると思う。現在、議員立法でも閣法でも、賛同する議員のグループを作って、みんなの成果にしてしまっている。当事者感覚をもって、サンドバッグになりながらも法案の実現に取り組むような議員が見える方が、「成果主義」の世の中には、良いのではないかと思う。

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2005年10月12日 (水)

立法のスキル

 日本の法律家を育成するシステムでは、法解釈を行える専門家(弁護士、裁判官、検事)を効率的に育成しているが、立法の専門家を育成するようにはできていない。
 では、役所が行っている立法作業に関するスキルはどこで学ぶのか?
 答えは単純である。役所に入って、徒弟奉公で学ぶわけである。北斗神拳のように一子相伝というわけではないが、大学等の外部の教育機関では教えてくれる場所はない。法科大学院のカリキュラムをみても、立法を学ぶようにはできていないといえそうである。
 この結果、役所には、外国法の専門家が若干中途採用されているものの、ほぼ自前で立法担当者を育成している。
 「法律顧問」なんていうポスト(又はそれに類似するポスト)が山のようにある国連とは対照的である。
 かつて、国内行政系の課外活動をしていた。その頃には、役所以外の人たちが良い政策のアイデアを持っているのに、それが実現しないのは、役所以外に立法のスキルがないことが原因の一つではないかと考えていた。
 そういう問題意識もあって、冗談めかして「「株式会社内閣法制局」でも作らない?NPO法人でもいいよ。」なんてことを言たりしていた。そうしたら、まじめに受け止める人有り、失笑する人有りで、反応がなかなか面白かったのを覚えている。
 公務員を減らす、行政の役割を縮小する、という方向に歩むのであれば、これまでどおりのスキルを維持していくことは難しくなるだろうから、役所以外で立法の専門家を育成する方策についても考えておいた方がいいような気がしている。

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2005年10月11日 (火)

道州制

 地方分権をどうするか、といった場合、受け皿が必要、という観点から、道州制や連邦制が構想される。
 しかしながら、日本においては、国土がそんなに広くなく、言語の違いもさして大きくないので、連邦制にしよう、という話にはならない。
 市町村合併が進んでいる。3000以上あった地方公共団体が、2000を切る。
 一つの県当たりだいたい、40強くらいの市町村がある計算になる。新潟の場合、2000年に112市町村があったが、2006年中には、35市町村になる。
 こういう状況の下では、市町村合併に引き続き、都道府県合併が具体的検討課題になるだろう。なお、都道府県合併が可能となるような法的整備はすでになされている。現に北東北3県は、合併のための協議をしている。
 同時に、道州制も本格的な検討が視野に入ってくる。道州制は、平成の初め頃に、ある識者が、さも自分が初めて言い出したかのごとく売り出したものだけれど、それまでにも、途絶えることはほとんどなく、長く議論されてきているし、多くの経験が積み重ねられている。
 都道府県合併と道州制についての経緯をざっと並べると次のとおり。
 1927年田中義一内閣で「州庁設置案」が検討された。
 1945年に、8つの地方総監府が設置された(短期間であったけれども、道州制が実現していた)。
 1947年には、都道府県の整理統合が付帯決議でなされた。
 1957年には、「道州制」と「府県統合案」が審議会から示された。
 また、高度成長期には、愛知、岐阜及び三重県の合併の動きがあったが、実現しなかった。合併しようとした理由は、高度経済成長とともに広域的な行政需要が増大したため、とされているが、実は、産業活動の活発化等による「水」の問題が主な理由だったと言われている(長良川河口堰は、治水とともに利水が目的とされているが、こういう時代背景の下で計画されたものである。)。
 話は変わるけれど、四国4県の県境というのは、山地有り、難所有りで、自然にできあがりやすいところに引かれている。
 しかしながら、県を4つにするかどうかを含め、明治時代にいろいろ変遷があった。ざっと並べてみる(名称は当時のものを書くとわけがわからなくなるので、現在の地名を使う。)。
明治4年 4県体制(現在と同じような県境)
明治5年 3県体制(香川県と徳島県が合併)
明治8年 4県体制(現在と同じような県境)
明治9年 2県体制(香川県と愛媛県、高知県と徳島県がそれぞれ合併)
明治13年 3県体制(香川県と愛媛県が合併されたまま、高知県・徳島県を分割)
明治21年 4県体制(現在と同じような県境)
 四国出身の友人に聞くと、現在では、香川と徳島、愛媛と高知がそれそれ親近感を持っているようなイメージらしい。なお、明治9年に高知県と徳島県が合併したけれども、県庁所在地は高知県にあり、徳島の人が県庁に行くためには、大歩危小歩危を越えるようなことをせず、船で一旦大阪に出て高知に渡るという方法をとっていたとのことで、両県を一つにするのは、無理があったのかもしれない。
 想像するに、四国においては、中央主導で決定したことが、地元のパワーでひっくり返され続けた歴史なのではないかと思われる。
 道州制導入の主張は、地方分権といいながら、中央主導で意思決定をしようとしているように見えてならない。道州制など地方公共団体の自治を強化することを目的の一つとしている施策は、もっと地方発の動きを重視したものであるべきと思う。四国のようにならぬように、というのは、余計なおせっかいか。

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2005年10月10日 (月)

世界競争力報告

 おおざっぱに言って、日本は、8億トンを輸入し、1億トンを輸出しており、輸出の付加価値が大きいため、巨大な貿易黒字を叩きだしている。国際競争力のなせる技である。
 さて、世界経済フォーラムが「2005年世界競争力報告」を発表した。
 中心的な指数は、「成長競争力指数」で、これは、「マクロ経済環境」「技術力」「公的制度の効率性」ををそれぞれ、1/4、1/2、1/4の割合で考慮して決定する。要するに、技術力が半分を占める指数である。
 ジェフリーサックスが、アメリカに有利なように指数を作成した、と批判する人もいるが、UNDPの人間開発指数などと違い、日本に有利に働きやすい指標の取り方といえるだろう。
 日本は、「成長競争力指数」が12位(前年9位)、「技術力」8位(前年5位)、「公的制度の効率性」14位(前年16位)、「マクロ経済環境」42位といった次第である。
 「日本の存立が危うい」とまでは思わないけれど、貿易黒字の取り崩しで生きて行く時期が案外早くやってくるのかもしれないなあ、などと考えた。
 指標をみていると、上位を占める国は、おおむね二つのタイプの国に分けられるようだ。
 アメリカ、日本、韓国、台湾といった、小さな公共部門を目指してきている国と北欧5カ国(スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、アイスランド、デンマーク)のように、大きな公共部門をよしとしてきた国である。
 これら、北欧5カ国といわれる国がすべて10位以内に入っていたが、フィナンシャルタイムズなどの論評をみているとおおむね次のような理由を挙げていた。
(1)大きな政府が競争力を下げるという証拠はない。
(2)北欧の競争力は、「広いセイフティーネット」と「質の高い(公的)教育サービス」がその源泉になっている。
 「小さな政府」一辺倒の日本のマスコミにはみられない、冷静な論調である。
 なお、日経新聞には、「郵政公社が民営化されていたらもう少し指標がよかったのではないか」といった趣旨のことが書かれていた。これは、直観的にも違うと思うし、ある財政学の先生は、「日経に取材されたときに「郵政公社が民営化されても、指標には全く影響がない」と答えた」と言っていた。とにかく新聞は、小さな政府が好きらしい。
 また、かつて、日本の一部(多く?)の識者は、十分な調査もせずに「北欧は税金が高いために非効率な社会を作ってしまっている」と扇情的な主張を展開していたのを思い出す。彼らから現状についての論評を聞きたいと思う(せめて「知らないことは話さない」くらいの「識者倫理」を確立して欲しい。)。
 日本は、現在、アメリカ型の社会を目指そうとしているといえるだろう。そのための理論的な基礎は、経済学が提供していると思われる。
 日本の経済学は、アメリカ経済学の圧倒的な影響下にあると言ってもよく、そのアメリカ経済学は、アメリカの現実を踏まえて構築されているわけで、日本の経済を考えるに当たって、その理論が妥当かどうかは必ずしも一致した見解があるわけではない。
 現下の財政状況では、北欧型の大きな政府を選択するのは難しいのかもしれないが、財政危機を切り抜けたとして、そのまま、アメリカ型の小さな政府であり続ける必要はないだろう。
 今一度、日本の目指す社会のあり方として、アメリカ型か北欧型かの議論があった方がいいと思う。アメリカ型にするのも北欧型にするのも、また、それ以外の道を目指すのも、なし崩しではなく、覚悟を決めてから取り組んだほうがいい。

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2005年10月 8日 (土)

社会関係資本

 ロバート・D・パットナムという学者が書いた"Making Democracy Work"(哲学する民主主義)という社会関係資本(social capital)に関する本がある。長期間に渡る調査であることもあり、分厚いのだけれども、結論を私の興味にしたがって短くまとめると、「南北イタリアの経済格差は、「信頼」「ネットワーク」「社会規範」などの社会関係資本の差により生じた」というものである。
 もう一つ、アメリカのビジネス書「人と人の「つながり」に投資する企業―ソーシャル・キャピタルが信頼を育む」という本が大いに売れたそうだ。内容・主張は、パットナム風に説明すると「社内の社会関係資本が競争力の源泉になる」ということになるだろう(ちょっと飛躍しているがご容赦)。
 ただし、読んだが面白くなかった。放っておいてもつながりができやすい日本の大部屋主義などの慣行を思い浮かべてしまったからだと思う。
 さて、日本の国際協力業界は、国際的にみて業界としての能力構築競争に負けていると言っていいと思う。政府が、この分野での人材育成を含む業者行政をやってこなかったことが一因かと思われる。
 これから伸ばしていくためには、政府の施策も重要だけれど政府の縮小が流れになっているなかで、それは望み薄である。業界内の社会関係資本を、業界にいる人たちのイニシアティブで充実させていく、といった取り組みが必要かと思う。

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2005年10月 7日 (金)

人口減少社会

 人口減少社会、高齢化社会、少子化社会と呼ばれる社会状況を心配している方々が多い。
 心配している人は、生産年齢人口(15歳から60歳)の人口が人口全体に占める割合が下がってしまうので生産力が弱まる、年金負担が増える、という主張をしている場合が多い。しかし、日本でも人口増加局面では、人口構造がピラミッド型で、そもそも生産年齢人口の割合は低かった時代を経験している。したがって、このことは新しい事態への直面とは言い難い。
 昔と比較して違うのは、非生産年齢人口の年齢が、かつて15歳以下が多かったのが、今度は60歳以上が多くなる、ということである。この場合、年金年金と心配するけれど、教育費は減少するわけだし、財政的にどうか、というと一概にはいえないだろう。
 話は変わるけれど、いわゆる団塊の世代の人たちくらいまでは、「日本は、どうして貧しいの?」「狭い国土に沢山の人が住んでいるからだよ。」といったやりとりを経験している人が多いのではないかと思う。昔と今では考え方が逆転しているように思える。
 人口が増えても減っても、心配する人は心配するのではいか、と私は疑っている。
 ぼちぼち「人口減少社会は心配に及ばない」というような論陣を張っている人も出てきている。本格的な議論が始まって欲しいと思う。

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2005年10月 6日 (木)

民主主義による効率性

 「市場の効率性」という場合の「効率」という概念を整理すると、(1)ニーズに合致しているか、というものと、(2)生産が効率的か(無駄がないか)という二つに分けて考えることができるだろう。
 市場では、(1)の「ニーズの合致」がないと淘汰されるし、(2)の「効率的生産」は競争力の源泉になるので、日々努力する。しかし、市場機構は、内包する問題も多く、万能ではない。
 一方、公共部門が供給する財・サービスについてはどうだろうか。
 「ニーズ合致」は、民主主義が機能すれば実現できるだろうし、評価メカニズムを上手に設定できれば、それなりの「効率生産」を実現できるのではないか、と思う。
 参加型民主主義が浸透している北欧諸国は、様々な工夫を凝らしてニーズに敏感な公共部門を作り上げようと努力し一定の成功を収めている。効率生産に関しても、ベスト・プラクティスの共有といった対応により相当程度の効率化を達成できているようである。
 現在の日本では、公共部門の非効率を批判する意見がよくみられる。これらの意見の多くは、参加型民主主義の浸透が、公共部門の効率性を上げるといったことを考慮していると思えない。
 公共部門の縮減により効率性の向上を目指すのも一つの方法だとは思うけれど、参加型民主主義の浸透による公共部門の効率性の向上も少しくらい考えてほしい。

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2005年10月 5日 (水)

市民と行政

 政策を担当する者は、功利主義的な思考を行う。最大多数の最大幸福を目指す。「この政策は、一部住民には迷惑がかかるが、公共の福祉に大いに資するので実施すべき」といった調子である。
 一方、政策に対する市民からの批判は、義務論的な思考から発しているように思える。「一部住民の生活を脅かす政策を実施してはならない」といった調子である。
 功利主義と義務論の溝を埋めることは難しいだろう。
 
 話は変わるけれど、「行政の無謬性」という言葉がある。行政への批判の文脈で語られるけれど、もしかしたら本当に「無謬」といえるかもしれない。つまり、行政は政治的決定に従っているわけで、特定の施策は、政治的決定を演繹して得た結論(の一つ)であり、その正しさは政治により保障されている、といえなくもない。 
 一方、市民は、目の前の事実に基づいて、施策のあり方を考え、行政の施策を、現実に合致しないと批判する。つまり帰納的な思考をしている、といえるのではないか。
 演繹と帰納の溝を埋めることはこれまた難しいだろう。
 要するに、市民と行政との対立を図式化すると、「義務論・帰納主義」VS「功利主義・演繹主義」ということになるだろう。この二つの溝を埋めることは難しい。
 だからこそ、市民と行政の相互理解を進めるため、質と量とを十分に確保した議論や対話が必要となってくる。両者の相互理解は、恋愛同様、ときに絶望的な試みなのかもしれないけれど。

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2005年10月 4日 (火)

細目予算・・・

 予算の立て方には、大きく分けてプログラム予算と細目予算(Line-item budget)があるといわれている。
 これらを定義することは難しいけれど、おおざっぱに言ってプログラム予算とは、プログラムごとに予算を計上するもので、細目予算とは、組織全体の予算を人件費、旅費などに分けて計上するものといったイメージで捉えることができる。
 プログラム予算の場合、特定のプログラムの予算が認められたら、プログラム・マネージャーがその予算の範囲内でプログラムを実施していく、ということになる。予算の積算時には、人件費、旅費等の根拠が示されるが、予算の範囲内であれば、プログラム・マネージャーの判断で、人件費を多く使い、旅費を少なくする、ということがあってもよい。
 細目予算の場合、マネージャーは、担当の職務を遂行するため、会計、人事等の担当部署に、人が何人欲しい、旅費がどれだけ欲しい、と要求することになる。例えば、組織内で支出できる旅費は予め総額が決められており、総額の範囲内で、各部局に配分される。旅費が人件費や飲食費に化けることは基本的にない。
 プログラム予算のメリットとしては、実績が次の予算に反映されやすい、ということが挙げられる。また、プログラム全体としてインプットとアウトプットが明確な分、パフォーマンスを評価しやすい。一方でプログラムマネージャの能力に依存し過ぎる危険があるし、不適当な支出をチェックすることが難しい。
 細目予算は、組織全体としての調整が行いやすいし、費目ごとに支出されているので、適正に支出しているかどうかといった検査には適している。しかし、実績が次の予算に反映されにくく、政策を評価することにはなじみにくい。
 各国とも、かつては、おおむね細目予算だったと言われている。プログラム予算は、1960年代にアメリカで導入が図られ、紆余曲折を経て各国に広がった。現在、OECD諸国で細目予算を採用しているのは、日本のみである。
 さて、国連の予算は、プログラム予算である。
 国連に関わっていて、各国予算と違い、納税者の厳しいチェックの無いプログラム予算は、こうも不適切な支出が多いのか、というのを思う存分見せつけられた。しかも、それでもって訴追された例を見ることもない。
 国連において、プログラム予算で適正な支出をチェックするのは大変なので、予算を細目予算に戻してしまい、チェックをやりやすいようにした方がいいのではないか、とさえ思うことがある。
 また、監査機構が問題を指摘しても、事務総長に近い有力なプログラムマネージャだったりすると、平気で無視したりする。ならば、やはり細目予算にし、予算の配分権のある官房を作って、変なことをしたら予算を配分しない、というようにして、無視をできないようにすればどうか、と思う。
 しつこく書いたけれど、要するにプログラム予算では、(1)厳しくチェックする納税者及びマスコミがいない組織、(2)評価が無視されるような組織、(3)倫理的に問題のある者が多い組織、(4)不適当な支出があった場合の訴追ができない組織では、うまく機能しないのではないか。
 国連においては、これらのすべてに当てはまってしまったりするケースがあるという気がしてならない。
 やれやれ。

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2005年10月 3日 (月)

公務員の数・・・

 公務員の数を語るのは、唇が寒いのですが、面白い統計を見つけたので・・・。
 1980年から1994年にかけての雇用に占める公務員の割合を調べたStenmoなる人がいるそうで、数字を抜き出してみます(単位はパーセント)。
        OECD計  フランス  イギリス アメリカ   日本
1870頃   2.4      2.5    4.9   2.9    1.0  
1913    3.7      3.0    4.1   3.7    3.1
1937    5.2      4.4    6.5   6.8    5.0
1960   12.3      ?    14.8  14.7     ?
1980   17.5     20.0   21.1  15.4    6.7
1994   18.4     24.8   15.0  14.5    6.9
 サッチャー時代のイギリスでは、「小さな政府」がスローガンになっていたけれど、日本からみたら、ダブつき過ぎたのをちょっと絞ってアメリカ並みにしたくらいの話ではないか、と思う。「小さな政府になると、治安、失業、社会不安などの問題が起きると考えられるが、どうすればいいのか?」という質問に対し、サッチャーは、「ビクトリア朝の美学を取り戻せばいい」などという反論をしたと伝えられている。ブラックジョークである。精神論で経済運営をされてはかなわない。
 一方、クリントンは、1996年の一般教書演説で、「「大きな政府」の時代は終わったが、「小さな政府」には戻れない」という趣旨の訴えを行っている。
 「大きな政府」とは、この場合、「福祉国家」を指し、おおむね中央集権でもって、国内の社会保障制度、インフラ整備を行った時代に機能した国家のあり方といえるだろう。一方、「小さな政府」は、いわゆる「夜警国家」であり、国家は、治安・防衛や外交だけやっていればよい、という考え方である。
 こういう定義で見ていくと、文字通りの「小さな政府」に戻れないのは明らかであり、クリントン大統領は、妥当な状況認識を示していた、と思う。
 2月ほど前、マレイシアの公務員庁の人にこの話をしたら、「マレイシアは日本より少ない」と自慢していた。福祉国家の段階にも至ってないのだから当たり前である。
 それはともかく、歴史的にみると日本は途上国並みの公務員数のまま経済成長し、先進国並みの行政サービスを実現している、といえるのではなかろうか。
・・・・・・・・・・
追加のひとりごと
 「失われた10年」とか相次ぐ幹部公務員のスキャンダルにより、「行政に対する信頼は失われた」とか、「日本の役人が優秀というのは怪しい」と言われる。これは、まあ当たっていると思う。
 しかし、「少ない公務員数でなんとか先進国並みの行政運営する」仕組み自体への否定する根拠にはなりえないだろう。政策決定と政策実施という分け方をした場合、前者に失敗し、後者は引き続き他の先進国に比較して良好な状況、という説明が妥当なところかと思われる。

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2005年10月 2日 (日)

規制

 日本は規制が多いと言われる。
 このことについて、評価はいろいろあろう。多いからダメ、というものでもない。
 日本に規制が多いのは、歴史的に説明できそうである。
 第二次世界大戦は総力戦と言われているが、ヨーロッパ諸国は、企業の国営化を大胆に行い、戦争を遂行した。日本は、財閥の力が強かったためか、国営化できず、規制一杯の統制経済で戦争を遂行しようとした。
 なお、アメリカは巨大な生産力でもって、市場から物資を調達することで戦争を遂行できた。
 戦争時の経済政策の多くは、戦後に引き継がれた。再度戦争が起きないとも限らなかったし、経済社会システムを急に変えることはできなかった、ということだろう。
 戦後もヨーロッパには、国営企業がたくさんあった。ルノーやVWも国営企業だった。オーストリアに至っては、主要企業はほとんど国営企業だと言われていた。
 一方、日本は、戦時中と同様に、鉄道、郵便、電信電話などを除き、市場を前提とした規制による管理が継続したといえるだろう。
 なお、アメリカは、あくまで自由な市場を前提に経済運営が行われた。ルールを明確にし、ルール違反には厳罰主義でもって市場を育てた。
 さて、OECDによる公共部門のGDPに占める割合の国際比較(1994)をすると、日本は、アメリカよりも少なく、ヨーロッパ諸国よりも大幅に少ない。
 これらを勘案すると、次のことが言えるのではないか。
1.国営企業が自動車産業などを含む主要産業を担っているのであれば、規制は少なくて済む。したがって、日本の方がヨーロッパより規制が多いというのは、国営企業の産業全体に占める割合が低いことが大きな原因である。
2.アメリカは規制が少ないといえるが、市場に任せるだけで経済運営が上手くいくわけでなく、結果として、財政で補完しており、その財政の規模は日本よりも大きい。さらに規制は少ないものの、ルール違反に対する罰則を厳しくするという手段をとっている。
 要するに、国民国家の経済運営上、国営や財政や規制による働きかけは必要である。市場だけでは、実現できないものは多い。その働きかけのやり方が各国で違っていると考えるのが自然なのではないかと思う。「規制=悪」というマインドセットで規制をみるのでなく、社会の仕組み全体から規制を眺める視線が必要ではないか。
・・・・・・・・・・・
後記:しかし、このようなことを言ったりすると批判されることが多い。真っ当な批判がある一方、「規制=悪」という信仰にとらわれ何ら根拠を示さない批判もある。実のところ後者が多い。なんとかならないか。

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2005年9月26日 (月)

環境省

 環境省ほど、「外圧」を利用して施策を実施してきた官庁はないように思う。
 しかもこの場合の外圧というのは、米国など特定の国というより、国連など国際社会によるものである。たとえば、ワシントン条約の批准については、ある国際セミナーでの非難決議を受けたのをきっかけに対応が進んだりした。
 環境基本法も、国連環境開発会議(リオ会議)を受け、当時「環境族」と言われた、竹下・橋本両代議士の尽力があり制定されたといわれている。
 話は変わるけれども、昭和50年代に、環境庁(当時)は、3本しか法律案を提出していない。法律の数で仕事を評価することは適当ではないが、環境に関する問題が山積する中で、10年間に3本しか法案を出さないというのは、環境庁が何のために存在しているのかわからない、といわれても仕方のないほど少ない数である。
 しかし、昭和62年以降は、毎年法案を提出してきている。実は、昭和62年、というのは、環境庁にとって記念すべき年である。環境庁設置後、プロパー(生え抜き)が採用されて約15年が経過し、官房の筆頭補佐に初めてプロパーが就任したのがこの年である。官房の筆頭補佐は、法律の提出など重要施策の調整を行う機能もあり、やっと環境庁が、プロパーの活躍する省庁になったがこの年(昭和62年)ということだろう。
 こんなことを書いていると、対照的な運命を辿った国土庁を思い浮かべてしまう。国土庁は、国土交通省に統合されるわ、国土庁のアイデンティティーともいえる全国総合開発計画の策定が取りやめになるわで、環境省と対照的な道を進んでしまった。「国土政策」に賭けた人たちにとっては、やりきれないのではなかろうかと推測する。

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2005年9月24日 (土)

年金保養基地

 1978年の末、会計検査院は、年金福祉事業団に対し、「年金保養基地(ホテルなど保養のための施設)のために 買収した3889平方メートル、総額380億円余の土地の大部分は休眠状態を続け、管理も十分でない」と指摘した。
 年金福祉事業団は廃止され、その資産は年金資金運用基金に承継された。ここ最近、厳しく批判されていた年金保養基地は、30年近く前からいろいろな問題を抱えていたことが推測される。
 問題の質にも変化があると思われるが、本格的な問題解決を行ってこなかった理由に興味がある。一般的な説明は、担当者が1、2年のローテーションで異動になるので、困ったことは先送りにしてしまう、というものである。
 さて、この頃の新聞記事をめくっていっても、年金保養基地を建設すること自体への批判が見当たらなかった。現在では、税金や厚生年金の掛け金などで保養施設を建設することに対しては、「もってのほか」「民業圧迫」と批判されるだろう。
 この問題に関しては、マスメディアや世論のあり方が大きく変わったといえる。「民間でできるものは民間で」という考え方は、そんなに昔からの考え方ではない、ということだろう。

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2005年9月23日 (金)

大新聞と週刊誌

 いくつかの省庁で、新聞等の記事への反論を試みているが、マスコミ関係者から次のような話を聞いた。
・・・省庁が公に反論を試みるとしても、相手としては新聞以外には考えにくい。週刊誌にはどんなことが書かれていても、反論しないだろう(注:間違いを指摘する手紙を書いてはいる。)。
 新聞に対して反論した場合、新聞が強がっている場合があったとしても、反論されて困るような記事を書いた記者の責任問題になる。しかも、反論に対して苦しい弁明をする労力も大きい。
 一方で、週刊誌に反論しても、週刊誌は、基本的に平気である。裁判になっても対応に慣れている。かえって読者が増えるかもしれない。反論されても記者等の責任問題は生じた、という話はほとんど聞かない。
 結局、各省庁は週刊誌に公に反論を試みたりしないだろう。・・・
 確かに、省庁の行動はこれに沿っているような気がする。
 しかし、情報公開、国民に知らせる義務、国民が知る権利といった観点からは、新聞だろうが週刊誌だろうが、間違った内容に対しては、しっかり反論していくことが必要との考え方もあろう。
 正直なところ、このような問題について、どう対応すべきなのかという指針を作るのは難しい。個別事案ごとに判断するほかないのだろう。

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2005年9月22日 (木)

アメリカ大統領

 歴代のアメリカ大統領は、ワシントンからブッシュまで、43人いるわけだけれど、うち18人が、州知事出身である、と丹念に調べた人から聞いた。
 18人のうち、ニューヨーク州知事出身者は、4人であり、ニューヨーク州知事はそれなりにプレステージが高いと推測される(このほか、テネシーとオハイオが2人ずつ。)。今では、ニューヨーク市長の方が、州知事よりも知名度が高くなっているような気もするけれど。
 F.ルーズベルトもニューヨーク州知事出身だったけれど、その後、カーターまでしばらく州知事出身の大統領が出なかった。カーターの後は、レーガン、一つおいて、クリントン、ブッシュと州知事出身者が続く(パパブッシュは、州知事出身でない。)。
 行政の長を経験する、という観点から考えると、大統領になる前には、上院議員として仕事をするよりも、州知事を経験した方がいいような気がする。
 翻って日本に関していうと、大臣になる前には、国会議員としての仕事を経験するよりも、県知事や市長を経験する方が戸惑いが少なくていいような気がする。ないものねだりだとは思うけれども。

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2005年9月21日 (水)

交通事故

 日本は、人口当たりの交通事故による死者数が少ない部類に入る。
 事故後30日以内死者数は、人口10万人当たり、7.0人で、ドイツの8.0人、フランスの10.2人、アメリカの14.7人に比べ少ない。
 乱暴にまとめると、少ない順から、北欧、日本、西欧(ゲルマン)、CANZ、西欧(ラテン)、アメリカ、東欧というような感じである。
 なお、ヨーロッパでは、ギリシャが19.3人とダントツに高く、なんとなくイメージにしっくり来たりする。
 日本では、平成15年に、46年ぶりに、事故後24時間以内の交通事故死者数が7,000人台まで減少した。減少した、ということで、問題が小さくなったわけで、このことは、あまり報道されなくなっているような気がする。
 46年前というと、昭和32年(1957年)であり、乗用車の台数は、現在の100分の1なんていう水準だった。
 現在では、24時間以内の交通事故者数は、乗用車1万台あたり1人より少ない、ということだけれど、昭和30年代の初めには、100台あたりにして1人くらい死亡させていたことになる。甲州街道で渋滞につかまったときに子供にこの話をしたら、「今見えている車のうち一つが人を殺してしまう数字だね」などと大人びたことを言っていた。
 交通事故者数の減少は、シートベルトの着用義務付け、ABS、エアバッグなど安全技術の発達、信号の設置などなど、さまざまな取り組みの結果である。
 特に、交差点に信号機を設置すると、平均して7割その交差点での事故が減少するそうである。しかし、もう信号機も飽和状態になっており、新たな信号機の設置による交通事故死亡者数減は望めない。
 一方、死亡者数に占める比率が高い高齢者が増加するため、交通事故死亡者数が増加する可能性もある。
 なお、死亡事故に遭う高齢者は、地域の老人会等の活動に参加していない人が明らかに多いそうである。因果関係を直ちには説明できないけれど、わかるような気がする。
 警察は、世界で最も交通事故死の(比率の)少ない国を目指しているそうだ。しかし、警察でできることは手詰まりになりつつある。そうなると、総合的な取り組みが必要で、こういうところで各府省間の連携が必要になってくる。どういう風に連携していくのか、又は連携していかないのか、私は興味があるのだけれど、多分、誰もそんなことを注目しないだろう。マスコミにも取り上げられないだろう。ちょっと寂しいかも。

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2005年9月16日 (金)

氏の制度

 氏(うじ)の制度について、別氏を認めるべきかどうか、長く議論されてきている。
 この「氏」というのは、家族とはお墓とかそういった伝統と結びついていて、なかなか難しい問題である。
 江戸時代、町人、農民には、苗字(=氏)の使用は認められていなかったが、明治3年太政官布告により、平民に氏の使用が許された。さらに、明治8年に氏の使用が義務化された。なお、これは、兵籍取り調べの必要上、軍から要求されたものとされている。
 明治9年になって、妻の氏は、実家の氏を用いることとされた(夫婦別氏制)。しかしながら、この指令にも関わらず、妻が夫の氏を称することが慣習化されていった。
 その後、明治31年にすったもんだの末、民法が成立するが、夫婦は、「家」の氏を称することで、結果的に同じ氏を名乗ることになった。
 戦後、昭和22年になり、新しい民法が制定され、「家」の氏を称するという考え方からではなく、夫又は妻の氏を称するということになった。
 明治9年の別氏制導入に対し、同氏制が慣習化していった、というところが興味深い。
 また、戦後、いわゆる「イエ」制度が解体されるわけだけれど、「イエ」を徹底的につぶす、ということにはなっていないように制度を設計したと思われる(善し悪しは別にして)。
 なお、氏の制度については、大きく分けて、別氏制、選択制、同氏制があるが、日本のような同氏制は、多数派というわけでなない(インドが同氏制なので、人口的には相当な数にはなるけれど。)。

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2005年9月 8日 (木)

春暁ガス田

 1968年、春暁ガス田もある東シナ海の大陸棚を、国連アジア極東委員会(エカフェ、ESCAPの前身くらいに思えばよい。)の資源探査船が調査し、翌年、「台湾と日本との間にある大陸棚は世界で最も豊富な油田の一つとなる可能性が大きい」なんて内容のレポートが発表されたから、さあ大変。ある学者(学者として業績があるのかどうははわからないけれど、マスメディアへの露出度大。)は、「ペルシャ湾の3分の1くらいとみてもいい」と煽っていた(こういう風だからマスコミ受けをするんだろう。)。
 その後は推して知るべし。
 国連って、資源探査なんかもやっていたのね。ちょっとびっくり。今は、権益が欲しい国は自分で調べろ、ということになっているけれど。現在、日本の持つたった一隻の資源探査船では、大陸棚の権益に関する国連への登録の締め切りに間に合いそうにないので、ノルウェーの資源探査船を借りているとのこと。
 中国は、資源になみなみならぬ情熱を傾けているからか、確か4隻持っていると聞いたことがある。やっぱ、貸してくれないんだろうね。
 そういえば、オーストラリア軍には、資源探査をする部隊があるそうで、これはこれで合理的かな、と思ったりする。資源の確保は安全保障の一環でもあるわけだし。

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2005年9月 7日 (水)

公務員の留学

 公務員が留学後早期に退職することが、税金の無駄だ、という批判を受け、政府は、退職者に対して学費などの返還を求める法整備に着手するとしている。
 余計なお世話ながら、少々心配がある。
 公務員に向いてないと思い、「退職するかもしれない」と考えている人は、留学を思いとどまっていると推測する(推測したい。)。ここで、仮に法律で留学後の退職についてルールを定めると、「退職するかもしれない」と考える人たちが、「法律に定められたとおりに辞めるのであれば、非難されない。」と解釈し、留学を思いとどまらず留学し、結果的に留学後の退職者を増やす結果になるかもしれない。この方が、当然、無駄は大きい。
 「留学直後の退職はけしからん」というのはわかるけれども、それに対しする制裁のため(溜飲を下げるため)法律を整備したとしても、所期の結果を生まない可能性がある。他の方法によることが適当なのかもしれない。
 法律の策定には、こういう難しさがある。

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2005年9月 3日 (土)

予算のムダ

 国連通常予算は2年予算である。予算要求という面倒な作業が2年に1回で済む。
 基本的には、日本の予算と同様、インクリメンタルな(漸増・漸減主義の)予算策定が行われる。
 2年予算の2年目には、人件費のベースアップなどで補正が行われるし、予め事務総長に追加の支出権限を与えていたりする。また、組織内の資金の流用は比較的自由に行われる。
 一方、PKO予算は、増減が激しいこともあり、一年予算である。PKOが設置されたら、急にお金がかかるし、活動が停止したら、ゼロになる。2年予算にするにはちょっと辛い。
 要するに、インクリメンタルな意志決定が必要な部分と緊急な対応が必要なところで予算の組み方を変えている。これは、一つの知恵かと思う。
 日本では、年度末に予算消化のためのムダな事業が行われると批判されている。
 一般に、公共事業の場合、予め年度末に予算が余った場合の使い道を考えており(でないと実施が間に合うわけがない)、災害などで緊急な出費が無かった場合に実施するよう計画している。
 とはいえ、年度末に駆け込みの支出が行われるのは事実であるし、そもそも一の年度内にすべて支出するのは無理があり、「とにかく支出してしまえ」という姿勢に陥ってしまいがちな場合もある。
 国連のように2年予算だったら、いろいろ問題はあるけれど、少なくとも、かなり無理のある年度内予算消化が楽になるし、駆け込み支出が2年に一回になる、ということだけでも、ムダの削減に繋がるように思う。

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2005年8月31日 (水)

調整バカ

 霞ヶ関の役人の口から、「専門バカと調整バカ、両方が問題だ。」などという話を聞いた。
 「専門バカ」はわかる。「調整バカ」というのも、見当がついた。
 「調整バカ」というのは、たとえば、「主に政策に関し、結論を急ぐため、理念や理想を持たず、八方丸く収めることばかりを考えて調整を行い、仕事をした気持ちになる人。一般に、調整の結果としてできあがる政策等の善し悪しに対する意識が希薄であることが特徴といえる。」というように説明できると思う。調整は、「手段」であるはずなのに、「目的」と化す、という悪弊がここでも、ということだろう。
 調整する人は、各機関間の調整だけでなくて、理想と現実の間の調整も担っているはずである。そもそも調整する人以外に、政策や決定に理想なり理念なりを注ぎ込んだり、維持したりすることは難しい。
 「調整バカ」という言葉を、役人の戒めの言葉として流行らせたい。

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2005年8月28日 (日)

長良川河口堰

 5月下旬、朝日新聞の社説をみてびっくりした。まだやっている。。。
 しばらくして、国土交通省から「平成17年5月23日付朝日新聞社説「長良川堰10年 この惨状をどうする」に対する国土交通省の考えについて」という反論があった。
 行政に対して、事実と異なると見られる報道がなされても、行政側は滅多なことではオープンな反論をしない。長良川河口堰については過去にも「10月15日付朝日新聞「窓」の報道に対する建設省の書簡について」という反論を行い、朝日新聞と論争になった。これはじっくり読むと面白い。色々言いたいことはあるけれど、判断は読まれた方にお任せするほかない。
 それはさておき、長良川河口堰は特殊なケースといえるかもしれないけれど、今後、HP上でのマスコミへの反論が一般的になるかもしれない。これもインターネットの効用か。
 政策論争が必要だ、シンクタンクが必要だ、というような議論はあるけれど、そのための環境づくりの意味からも、マスコミ報道に問題がある場合には、オープンに反論することで、行政の活動に関する理解を促進することが必要かと思う。
 今回は、論争がなされないまま終わる可能性は高いけれど、この件に限らず、今後の成り行きが楽しみである。

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2005年8月23日 (火)

シンクタンク

 霞ヶ関が唯一最大のシンクタンク、などと言われたりします。霞ヶ関のシンクタンク機能はなかなか強力です。霞ヶ関に対抗しようと思って政策を提言しようとしても、より良いものを作ることはなかなか難しいでしょう。そのためか、「ありえない政策」「極端な政策」をもって対抗する、なんてことが「いつもの風景」なんてことになりがちです。
 これを何とかするためには、霞ヶ関以外にいくつかの強力なシンクタンクができることと、結論をうやむやにしない政策論争が一般化することが近道かと思います。
 霞ヶ関の役人と話をしていると、「これしかない」というような政策を決定、実行しようとしても、国民の理解が得られないことがあり、このため、「国民に理解されなくても、正しいことをやる」というような自嘲の籠もった、時に独善的な心境にならざるを得なくなっています。このような「少しゆがんだエリート意識」を政策担当者が持つことは、彼らにとっても国民にとっても不幸かと思われます。
 公務員を批判することはたやすいのですが、強力なシンクタンクができ、是々非々の批判、政策論争が充実すれば、役人のモチベーションもあがるし、「少しゆがんだエリート意識」を持たずに済むように思います。

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2005年8月22日 (月)

選挙、国会議員ほか

 フィリピンの選挙用紙は大きいし、書かないといけないことも多いので候補者は、カンニングペーパーを配布したりするそうだ。
 大統領選挙、上院議員選挙(複数記名、10前後か)、自治体首長選挙、自治体議会選挙(複数記名)・・・・・、というように沢山の名前を一つの紙に書き込まないといけない。
選挙の開票に50日くらいかかる理由が分かるような気がする。
 インドは、世界最大の民主主義国家である。民主的な選挙が行われるが、選挙では必ず死人が出る。しかも、現役の暴力団の頭目が国会議員に当選したりする。ちょっと怖い。
一度、インドの国会議員が国連総会主要委員会の公式会合(総会会議場ではない)に現れて、フロアから担当官が行うような細かい内容のスピーチを行っているのをみたことがある。お国に帰って「国連で演説をした!」と土産話をしたいのだろうか、となると、インドでの国連のイメージはいいのかな、などと考えた。
 また、あるとき、国連の地下の狭い非公式会合の会議場で、見知らぬ女性が隣に座った。「新顔かな」と思い、簡単な自己紹介をしたところ、オランダの国会議員の視察だった。その後、沢山の質問を受けながら、会議に参加したのだけれど、どうみても案内している人がいなさそうだった。別の機会にオランダの外交官に聞いてみたら、「議員が会議風景を見たいというので、入場パスの手続きなどの手配をした。アテンドはしない。」とのことでした。国会議員の扱いに関して、日本の常識とちょっと違っていた。

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2005年8月21日 (日)

緑のダム余話

 利水のため、ダムを建設することは必要である。仮に首都圏のダムをなくしたら、水不足で都市機能が簡単に麻痺するということは、小学生でも分かる。
 ずっと昔、関東平野も緑豊かだった。当たり前だ。ただし関東平野を流れる利根川水系の実力はあまりない。流量も安定的でない。そこでダムが必要になった。その後、ダムのおかげで水不足というボトルネックが解消され、活発な経済活動や爆発的に増えた人口による消費をしのげる水を確保することができた。
 しかし、これだけ関東平野に人口が増えたにもかかわらず、水源林を整備したらダムがいらない、という主張をする学者がいたりする。緑のダムってやつ。こういう手合いは、当然、学会には無視されている。
 自然の植物が人間に都合良く水をためたり放出したりするわけないじゃないか、と言いたくなる。それくらいわかりそうなのに、マスコミが取り上げたりする。
 捨てる神(学会)あれば、拾う神(マスコミ)あり、ってことか。

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2005年8月20日 (土)

道路公団民営化余話

 友人が次のような趣旨の話をしていた。
 「道路公団の改革についてはもう結論が出てしまったけれど、本来、改革で決定的に重要なのは、公団の財務の状況がどうなっているか、ということである。財務の状況がよければ、改革の必要性は薄い。
 実際のところ、道路公団は、例えば、個人の30年の住宅ローンの借り入れ金利で資金調達をさせてもらえれば(要するに、財政投融資から銀行ローンに乗り換えることを許してもらえれば)、一気に「超」のつく優良企業になる。
 しかし、現在、高い利子がつく郵貯からの資金(財政投融資)を強制的に引き受けさせられていることが原因で、「財務状況がよくない」と批判を受けていた。これは、郵便貯金による高金利の資金というババを誰が引き受けるか、という問題であって、結局、道路公団がババを引かされている。引かされたババが原因で悪者にされるのはスジが通らない。
 道路公団は、民営化委員会の決定に沿って、引き続き市場からの資金調達ができず、すなわち、高い金利の資金を調達することを義務づけられたままにされてしまった。これはフェアでない。民営化するならば、市場からの資金調達を自由にさせるべきだ。」
 もうあきらめの境地である。こういう話を聞くことに慣れてしまっているのはうれしくない。こんな中で、よく中央省庁の役人はやる気を失わず仕事をしているなー、と感心したりする。
 いずれにせよ公団職員がいろいろ悪さをして批判を受けているけれど、それとこれとは話が違う気がする。

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2005年8月16日 (火)

政治任用について

故森嶋通夫ロンドン大学教授は、「サッチャー時代のイギリス」という本の中で、アメリカ大統領により政治的に任命され中東に派遣された大使の無能さについて怒りをぶちまけていた。要するに、彼は、かの大使の政治任用が大統領選挙による論功行賞によるものであって、能力を前提としていないことを問題していた。
 日本には高級公務員を政治任用にするといった内容を政権公約とする有力政党もある。
 確かに政治任用を活用することにより政治主導の政府運営を実現すべきという考え方は一定の説得力をもつ。しかし、その副作用として、故森嶋教授が指摘しているようなことが、近い将来起こるのかもしれない。
 現在、日本では、政府に関わる仕事をする人たちのうち、①政治家は選挙で、②職業公務員は試験で選ばれるけれど、政治任用者はいずれにもよらない。
 つまり、①国民の目によるチェック(選挙)も、②能力の実証によるチェック(試験)もない。
 政治任用に対する官僚の不安というのは、実はこういうところにあるのかもしれない。
 今後、政治任用を拡大するに当たっては、少なくともアメリカにおける政治任用のデメリットまでそのまま受け入れる必要はなく、メリットを生かしつつ、デメリットを解消するような工夫が必要だろう、という気がする。

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2005年8月14日 (日)

公務員の数

 近頃の新聞で、「日本の公務員の人数は多い」という記事をよく目にする。しかし、どういう数字の取り方をしても(特殊法人などを含めても、また、意地悪な細工を試みたとしても)、日本がG5の中で、人口比でみた公務員数が最も少ない。
 学問の世界は事実関係を重視するので、例えば行政学の世界で、「日本の公務員は多い」と主張を展開したら、多分、相手にされなくなるのではないかと思う(そういえば、「日本の公務員数は多い」と主張する行政学者を私は知りません。誰かそういう人がいたら教えてください。)。
 ただし、公務員が多いという主張は、行政の役割の範囲を縮小せよ、という主張とのパッケージであれば、一つの見識とみることもできるかもしれない。
 さて、国連の予算は、プログラム予算と呼ばれる。
 国連総会等で、取り組むべきプログラムが決定され、それを受けて、事務局がそのプログラムへの対応のためにどれくらいの人的資源や資金が必要かを盛り込んだ予算を作成し、改めて総会等で予算が決定されるという手順を踏む。
 短くいえば、「人と金が確保されてないことはしない。」という考え方に基づいた予算編成がなされている。なんとなく、予算の当たり前の姿のように思える。
 一方、日本の場合、職員数と予算に厳しい制限が課されており(特に職員数について制限が厳しい)、新しいプログラムを実施するよう国会から要請があっても、これまでの職員数と予算の範囲内で実施しなさい、ということになっている。しかも、「これはもうやらなくていい」という国会の指示がなかったりする。
 短くいうと、「人や資金の手当がなくても頑張って何とかする。」という考え方に基づいた予算といえるのではないか。
 この考え方は、少なくとも国家公務員の数の抑制に大きな役割を果たしてきた(地方公務員は別。)。しかしながら、こういう考え方で行政府を管理していいものか、という気がしないでもない。

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2005年8月12日 (金)

昔の官僚論

 1982年7月から8月にかけて読売新聞に連載された官僚を論評したシリーズ記事「官僚たちの挫折」のスクラップを読んだ。
 官僚の力が弱くなった、天下り先を見つけるのが難しくなった、というような、現在でもそのまま通用する記述があったりした。
 また、「自民党念願のシンクタンク(頭脳集団)が、いよいよ(7月)15日正式に発足することになった。」なんてことも書いてあった。シンクタンクの運営委員会のメンバーに霞ヶ関OBが少なくとも4人並んでいた。語り継がれていないところをみると、十分には機能しなかったのではないかと推測する。
 なお、2005年の現在、自民党と民主両党がシンクタンクを設立しつつと聞いているけれど、これはどうなるのか大変興味がある。
 くだらないところでは、大蔵官僚については、「事実、少し前までは、引く手あまたで、見合いにこぎつければ百発百中。不成立などということは考えられなかった。」というのに続き、「「今は、二組に一組は不成立なんではないですか」-ある大蔵幹部は、いかにもくやしそうだ。」という、必ずしも真偽が定かでない記述があった。二組に一組が成立、ということさえ、にわかには信じがたい。
 噂話をそのまま記事にして、官僚に関する「神話」を作っているのではないか、と勘繰りたくなった。

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2005年8月11日 (木)

二分法

 政治に興味がない人でも、現在進行中の自民党の党中劇への興味を持つ人は多いと思う。これについて各新聞は、首相が賛成・反対の二分法により政争を仕掛けている、というように指摘している。これはそのとおりだろう。
 20年ほど前、自民党には、いくつもの派閥があった。派閥は、親分子分の関係と政治的立場の主に二つの観点から形成していたような印象があった。政策論争は、派閥同士なされていたように思う。しかし、自民党内でどういう政策論争がなされているのか、どうやって政策決定にたどり着いているのか、新聞をよく読んでもよくわからなかった。そのわからなさに対し、料亭政治とか密室政治といった批判がなされていたように思う。
 一方、現在の政策論争は、新聞を読まなくても、わかった気持ちになれる。二分法はわかりやすい。
 「新聞を読んでもわからない」と「新聞を読まなくてもわかった気持ちになれる」。いいのか悪いのかは別にしても、この差は大きい。

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2005年8月 4日 (木)

インド

 防衛庁の中には、戦略上、インドを重視する人がそれなりにいる、という話を聞いた。
 現在、日米安保があるけれど、日米安保が永遠にこのまま維持されるというのは考えにくいし、アメリカが日本を見放す、なんてこともあるかもしれない。そのときの同盟国としてインドを思い浮かべるのは、わかるような気がする。なんたってインドは、世界最大の民主主義国家だし。
 仮に10年前くらいに、安全保障上「インド重視」なんてことを言ったとしたら、「なに寝ぼけたことを」くらいに言われていたかもしれない。
 しかし、最近だと、IT人材が豊富なことやインド映画の人気など、インドに関する情報を増えてきているし、なんとなく(偏見かもしれないが)インド人は凶悪犯罪を起こしそうにないし、宗教的に不寛容な印象も受けない(なんたって非暴力)ので、パートナーに位置づけることに関する抵抗感がなくなっているような気がする。
 この「パートナーとして悪くないかも」と他の国の人たちに思わせるのものを、「ソフトパワー」といっていいのかな、などと考えたりします。

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2005年8月 3日 (水)

戒律と残業

 多くの宗教には、特定の食べ物を食べてはならない(あ、そもそも食べ物と認定していないのかも)という戒律が含まれています。どうしてそういう戒律が定められたのか、ということは、不明な場合が多かったりします。
 一方で、そのような戒律は、異教徒との交流を妨げます。だって、食事をともにすることが、最も重要な交流の方法ですからね。食物に関する戒律の社会学的意味があるとすれば、異教徒の交流を妨げ、宗教の結束を高める、ということになるでしょう。
 霞ヶ関の公務員はよく残業しますが、その原因の一つとして国会待機があります。
 さて、国会待機が解除され、「さあ、飲みに行こう」なんてことになった場合(国会待機の解除の時間は予想しにくい)、飲みに行く相手は一緒に仕事をしている人しかいない、なんてことになりがちですよね(いつも待ってくれているパートナーがいる人は別にして。)。そう考えると、残業の社会学的意味は、外部の人たちとの交流を妨げ、所属組織内の結束を高める、ということになるような気がします。
 以上は、あくまで一般論ですが、会う人が限られることにより、政策担当者の世界、視野等が狭くなってしまうような気がしてなりません。

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2005年8月 2日 (火)

会話と規範

 電車に女子高生のグループがいたとする。目が合うと変態扱いされかねないので、目をつぶるか本に目を落とす(みんな女性専用車両に閉じこもって欲しい。)。
 それにしてもうるさいときがある。特に、ひとりが、可愛くもないものを「かわいー!」と叫んだら、みんな必死に、「かわいー!」と連呼する(しようとする)。その姿は、進んで同調しているのか、同調を強要されているのか、よく分からないけれど、後者の要素が大きいような気がする。
 彼女たちは、とにかく、よくおしゃべりをする。おしゃべりには、もともといろいろな価値観が含まれている筈だけれど、人生経験が長いわけでないし、どのみち同じような経験をしてきているので、仲間内での付き合いが積み重なっていくうちに、簡単に一定の規範(判断基準等)が確立してしまうように思える。特に、高校生の場合、排除の危険に晒されないよう、みんなへの同調行動を重視する結果、確立した規範の拘束力が強くなってしまっているのではないかと思う。それが、「かわいー!」の連呼の発生原理ではないか、などとくだらないことを考えたりする(もっと違和感を大切にして欲しい・・・。)。
 一般に、霞ヶ関の公務員というのは、忙しい合間を縫って職場の同僚とよく飲みに行く機会が多い(忙しいという割には、接待で問題になっていたこともありました。)。飲み屋で語られる内容は、他愛のないものが大部分だろうけれど、それは、属する組織の規範を作り出したり、伝えたりする役割を果たしているような気がする。
 これを、もう少し敷衍してみると、同じ組織の者同士が、頻繁に飲みに行き会話を積み重ねていくことで、世間離れした規範の確立が促進され、その次の段階は、世間離れした規範を「正しく」伝えていくために、飲みに行く機会が増える、というメカニズムが働いているのではないかと疑っている。
 こういうところに、「霞ヶ関の常識は世間の非常識」という批判を受ける素地があるのかもしれない。

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2005年7月30日 (土)

高齢者政党

 オランダでは、高齢者政党というのがブームになったことがあるそうです。
 これ、日本で組織化されたら大変な政治勢力になる可能性があります。
 というのも、日本は、高齢化率がとても高いし、高齢者の方が若者よりも政治的関心が一般に高いからです。
 これに加え、いわゆる一票の重さが、一般に都市部よりも地方の方が高いのですが、その地方の高齢化率が高いので、一層、高齢者の意見を反映しやすくなります。
 高齢者の政治勢力が強くなると、当然のこととして、「高齢者優遇、若者へのしわ寄せ」といった傾向をもつ政策決定がなされる可能性が高くなります。
 余計な心配だとは思うけれど。。。

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2005年7月28日 (木)

陸・海・空

 自衛官の方々から、色々興味深いお話を聞きました。一つ紹介します。
 陸・海・空のそれぞれの自衛隊を示す言葉があるそうで、それぞれ次の通りだそうです。
  陸上自衛隊 = 用意周到 頑迷固陋 Final Goal Keeper of Defense
  海上自衛隊 = 伝統墨守 唯我独尊 First Line of Defense
  航空自衛隊 = 勇猛果敢 支離滅裂 Key to Defense, Ready Anytime
 海上自衛隊が第一線、というところに、改めて日本の地理的特殊性を感じますね。

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2005年7月27日 (水)

政治任用

 アメリカ型の政治任用の日本への導入について、大統領制と議院内閣制の違いから、果たしていいのか?という議論もある。これはこれでそれなりの説得力がある。
 それはさておき、現在、日本への導入に当たっては、中央政府のみを対象と考えている様子であるが、地方政府はどうだろう。
 よく調べたわけではないけれど、NY市の日々のニュースに触れていた経験からすると、政治任用によるものらしいポストが多そうな印象だった。なんとなく、アメリカでは、行政への政治任用が、上から下まで組織文化として浸透しているのではないかと推測する。
 その一方で、中央政府でも数万人の規模をもつ機関で政治任用者が1名ないし2名、なんていうところもある。野放図な政治任用がなされているわけではない。
 日本への政治任用の導入を主張する人たちの多くは、このことに関する実証的な分析を根拠に主張しているようには思えない。しかも、同時に、「日本で政策シンクタンクを強化すべき」と主張していたりする。少しくらいおかしいと思った方がいいのではないか。
 いずれにせよ、政治任用の実施を検討する前に、その使われ方や背景についても、もっと研究する必要がある気がする。

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2005年3月 4日 (金)

政府米

 農水省のHPを眺めていると、「インドネシア・スマトラ島沖大規模地震及びインド洋津波被害への支援に関する農林水産省連絡会議」というのが設置されているとのこと。「政府米の取扱い」が重要議題の一つだそうです。米の備蓄は重要だけど、あんまり古くなったらお米もおいしくなくなるし、日本では売りにくいなどなどの理由から、「政府米を上手に消費していかないといけない」という論理が働きます。津波への支援に政府米を使うことは、被災地の支援になるので、政府米の使われ方として外交的にも望ましいといえるでしょう。
 それはさておき、豊作が続くなどして、政府米が積み上がったときには、いろいろ面倒な問題も起きます。例えば、「政府米を上手に消費していかないといけない」という論理と、「北朝鮮に対する食糧援助を停止すべき」という外交の論理がぶつかったときどうするか、などということが容易に想像できます。実際、過去において、政府がこのような問題に直面し右往左往したことがあったとか。
 外交を優先すべき、という声が聞こえて来そうだけれど、調整が大変難しい問題かと思われます。

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